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天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2016年掲載分)

天理教手柄山分教会報コラム
「逸話篇を学ぶ」より(立教179年掲載分です)

 
 102 私が見舞いに  (立教179年6月掲載)
 
 明治十五年六月十八日(陰暦五月三日)教祖は、まつゑの姉にあたる河内国教興寺村の松村さくが、痛風症で悩んでいると聞かれて、
「姉さんの障りなら、私が見舞いに行こう。」
と、仰せになり、飯降伊蔵外一名を連れ、赤衣を召し人力車に乗って、国分街道を出かけられた。そして、三日間、松村栄治郎宅に滞在なされたが、その間、さくをみずから手厚くお世話下された。
 ところが、教祖のおいでになっている事を伝え聞いた信者達が、大勢寄り集まって来たので、柏原警察分署から巡査が出張して来て、門の閉鎖を命じ、立番までする有様であった。それでも、多くの信者が寄って来て、門を閉めて置いても、入って来て投銭をした。教祖は、
「出て来る者を、何んぼ止めても止まらぬ。ここは、詣り場所になる。打ち分け場所になるのやで。」
と、仰せられた。さくは、教祖にお教え頂いて、三日目におぢばへ帰り、半月余りで、すっきり全快の御守護を頂いた。

 
  五人ある中の二人はうちにおけ
  あと三人は神のひきうけ (1-68)
 このおふでさきは、小東家に仰ったものだと言われます。小東家には、さく、松恵、政太郎、定次郎、仙次郎の五人の子供がいらっしゃいましたが、中の二人には家の用事をさせ、さく、松恵、仙次郎は神の方で引受けると意味だと勉強したことがあります。
 これにより松恵様は教祖様の長男秀司先生の奥様となられ、姉のさく様は、松村栄治郎先生に嫁ぐことになりました。
 秀司先生と松恵奥様のご結婚が明治二年、さく奥様が熱心に信仰を始められたとされる「たちやまいのおたすけ(逸話篇23)」が明治四年と聞きますから「私が見舞いに」の逸話はさく奥様が信仰を始めて十年ほどたったくらいの出来事だと推測できます。「出て来る者を、何んぼ止めても止まらぬ。ここは、詣り場所になる。打ち分け場所になるのやで。」とのお言葉通り、この場所は後に高安大教会となりました。河内国教興寺村は現在の大阪府八尾市。十三峠徒歩団参の出発地点として使われることの多い近鉄瓢箪山駅から5キロほど南に下ったところです。初代会長には、さく奥様の嫡男吉太郎先生が就任なされました。松村吉太郎先生は、後に天理教を支える中心的役割を担われたことでも知られる先生です。
  
9 ふた親の心次第に (立教179年7月掲載)
 
 文久三年七月の中頃、辻忠作の長男由松は、当年四才であったが、顔が青くなり、もう難しいという程になったので、忠作の母おりうが背負うて参拝したところ、教祖は、
「親と代わりて来い。」
と、仰せられた。それで、妻ますが、背負うて参拝したところ、
「ふた親の心次第に救けてやろう。」
と、お諭し頂き、四、五日程で、すっきりお救け頂いた。

 
 教祖伝に「その頃、お針子の中に、豊田村の辻忠作の姉おこよが居た。その縁から、忠作の仲人で、嘉永五年、三女おはるは、櫟本村の梶本惣治郎へ嫁入った。」とあります。
 「その頃」とは、嘉永元年、教祖五十一歳の頃のことです。
 「つとめ短い」の言葉で知られる、妹くら様の身上による入信の逸話は、それから15年も経った文久3年3月のことです。今回の御逸話はその数ヶ月後だそうです。「つとめ」の地唄は辻忠作先生が入信されてた3年後の慶応二年から教えられています。をびやゆるしのはじまりである教祖の三女おはる様の仲人も辻忠作先生であることを考え合わせると、まるで辻先生の成人が、そのまま当時のお道の歩みのように思えるから不思議ですね。
 さて「ふた親の心次第に」のご逸話です。ふた親の一人は、勿論、由松の母マス様だと推察できます。問題はもう一人の親でなのですが、教祖が「親と代わりて来い。」の仰っていることを考えると、やはりそれは祖母のおりゆ様ではなく、父親の辻忠作先生と考えるべきではないでしょうか。
 「ふた親の心次第に」。
 子育てをしていると、子供が病気になったり、怪我を負ったりして、その度毎にこの御言葉を思い出します。夫婦ゲンカをしたり、足並みが揃っていないと、まず見せられるのは子供の節であるからです。父親だけでも、母親だけでもなく、夫婦揃って神様に心を向けることが、やはり最も大切なことなのだと考えさせられますね。

   29 三つの宝 (2016年8月掲載)
 
 ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、
「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」
と、仰せられた。
 伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、
「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」
と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、
「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」
と、仰せられた。
 伊蔵は、生涯この教を守って通ったのである。

 
♪朝起き 正直 働きの 三つの教え 身につけて~♪
 こどもおぢばがえりが始まると、詰所をはじめ、おやさとのあちらこちらで、少年会の歌を耳にします。そのせいでしょうか。「三つの宝」のお話は、本席飯降伊蔵先生のずっと若い頃の逸話だと思っていました。でも、この逸話は明治5、6年頃と言われますから、天保5年(1834)生まれの本席さまが42~43才頃の話だそうです。有名な大和神社の節はその12年前の元治元年(1864)で本席様30才の時。一人で黙々とつとめ場所の普請に励まれる本席様の姿は、三つの宝の逸話と重なります。が、大切な点は、朝起き、正直、働きを、それが一番できている本席様に、お渡し下されているということです。きっと宝物が無くならないよう、一番大切にされる本席さまに宝物をお渡しになったのでしょう。
 筆者が海外部アジア一課に勤務している頃、当時課長であった辻豊雄先生にこんな話を教えて頂いたことがあります。
 飯降伊蔵先生よりも信仰の古い先生は辻忠作先生をはじめ、たくさんいらっしゃるのに、飯降伊蔵先生が本席になられたのは、三つの宝を大切にされたから。では宝とは何でしょうか。もちろん様々な考え方がありますが、教えて頂いたのは「朝起き、正直、働き」とは年齢と共に変わっていく苦手なものだということです。若い頃は朝起き。守るべき家族や立場ができてくると正直。そうして高齢になると働き。どんな時でも、どんなことでも、ずっと神様に喜んで頂く事だけを考えて、もくもくと努める姿が、やがては一粒万倍の宝物に変わるのだと教えていただきました。
 宝物、なくしていませんか?
 
    194 お召し上がり物 (2016年9月掲載)
 
 教祖は、高齢になられてから、時々、生の薩摩藷を、ワサビ下ろしですったものを召し上がった。
 又、味醂も、小さい盃で、時々召し上がった。殊に、前栽の松本のものがお気に入りで、瓢箪を持って買いに行っては、差し上げた、という。
 又、芋御飯、豆御飯、乾瓢御飯、松茸御飯、南瓜御飯というような、色御飯がお好きであった。そういう御飯を召し上がっておられるところへ、人々が来合わすと、よく、それでお握りのようなものを拵えて、下された。
 又、柿の葉ずしがお好きであった。これは、柿の新芽が伸びて香りの高くなった頃、その葉で包んで作ったすしである。

 
 いつだったか、どうして教祖は赤衣をお召しになられたのかという、お話を聞いたことがあります。
 もし教祖が赤衣をお召しになられていなかったら、私たちが、おさづけを取り次がせて頂く時や教祖殿でお祈りをさせていただく時、なかなか教祖のお姿を想像するのは難しいですね。でも、赤衣をめされ、白髪を茶せんに結っておられるお姿は、誰でも容易に想像できるし、もし夢に出てきたとしても、すぐに教祖だと解ります。だから、本当にありがいことなんだというお話でした。
 その時、私は、なるほどと膝を打って合点がいったのですが、しばらくして、一つの疑問が生じました。それは「そうであるならば、逸話篇にある玉に分銅やお召し上がり物といったお話には、どんな意味があるのだろう」ということでした。その疑問はずっと、解けないままだったのですが、最近、前会長様が、夫である、五代会長の思い出をいろんな人にお願いして書いて貰っている姿をみていて、あることに気がつきました。
 五代会長が出直したとき、末娘はまだ二歳で写真でしか記憶にはありません。まして孫となるとなおされです。だから、たとえどれほど僅かな事柄であっても、幽かな匂いの如きものであっても、どんなことでも残してあげたいという強い思いが、そこにあるということです。
 教祖をお慕いされた先人の先生方が、教祖のお姿を拝したことのない我々に、たとえどんな些細なことでも、教祖の匂いを伝えようとされた思い、また、高野友治先生をはじめ後生に少しでも教祖のお姿を伝えようとされた多くの先生方の志が、そこには詰まっているような気がします。
 毎月、二十六日、炊事本部より頂く昼食には、よく様々な色ご飯がでてきます。楽しみにされている方も多いことと思いますが、きっとそこにも、少しでも教祖の匂いを感じて欲しいという、真心がこもっているような気がします。

   2 お言葉のある毎に  (2016年10月掲載)
 
 天保九年十月の立教の時、当時十四才と八才であったおまさ、おきみ(註、後のおはる)の二人は、後日この時の様子を述懐して、「私達は、お言葉のある毎に、余りの怖さに、頭から布団をかぶり、互いに抱き付いてふるえていました。」と述べている。

 
 香港に赴任していたころ、近所で高層マンションの建設をしていたことがあります。香港の地下は固い岩盤でできているので、基礎工事の時は毎日、かなり大きな騒音に悩まされたの覚えています。そして基礎工事のときはあれほど日数をかけていたのに、それが終わるとあっというまに高層マンションが建ったので、ビックリしました。時間をかけて硬い岩を割り、地中深くに根を下ろす事で、あれほど高いビルディングでも、びくともしないような建築物になっていくのだそうです。
 考えてみると、立教当時のおどろおどろオドロオドロしさや先人の先生方が信仰を始められたときの恐ろしさや緊迫感は、陽気ぐらし世界建設の基礎工事みたいなものかもしれませんね。
 びくともしない信仰と聞いて思い出すのは父である五代会長が出直したときの、祖母尾種富子四代会長夫人の姿です。最愛の長男が出直しても、まったまったく普段と変わらない信仰態度で生活を続けておられたのですから。
 前会長様は著書『手柄山の礎を築いた人々』で尾種富子四代会長夫人の思い出が語られています。きっと、もっとたくさんの思い出があったはずなのに、語られているのは、長女寿美さんや四男俊正さんの夭折された時のご様子でした。本当の陽気ぐらしが出来るような信仰を持つためには、さまざまな節や確固たる土台が必要なのだと考えさせられました。
 
49 素直な心 (2016年11月掲載)
 
 明治九年か十年頃、林芳松が五、六才頃のことである。右手を脱臼したので、祖母に連れられてお屋敷へ帰って来た。すると、教祖は、
「ぼんぼん、よう来やはったなあ。」
と、仰っしゃって、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、
「その茶碗を持って来ておくれ。」
と、仰せられた。
 芳松は、右手が痛いから左手で持とうとすると、教祖は、
「ぼん、こちらこちら。」
と、御自身の右手をお上げになった。
 威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛む右手で茶碗を持とうとしたら、持てた。茶碗を持った右手は、いつしか御守護を頂いて、治っていたのである。

 
 数年前、長男が脱臼をして、慌てたことがありました。そのとき、まず心に浮かんだのがこの逸話です。正直に言うと、私はこの逸話があまり好きではありません。なにせ自分が一番苦手なことなのですから。人から何かを頼まれたとき、口では「ハイ!」と言っていても、心の中で、ブツブツと文句を言っていることが余りに多いのです。心が後ろ向きの時は、特に素直な気持ちにはなれませんね。
 そういう時はついつい「あれをせな、あかん。これをせな、あかん」とアカンアカンと心までアカン状態になってしまいますが、長男のように、どれほど悪戯をして叱られても、「もっと、こ~したらイイ!あ~したらイイ!」と思えるの方が、よほど素直な心になれるのだろうなと思います。
 「素直な心」になれたなら、きっと周囲の人を喜ばせたり、楽しませたりできるのに……。頭ではわかるのに、なぜかできなくて、とってもとっても、難しいと思うのは、きっと、私だけはないはず……。とまたまた心の中で言い訳をしてしまう、なかなか「素直な心」な心になれない父なのでした。

    7 真心の御供(2016年12月掲載)
 
 中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。
 すると、教祖は、いつになく、
「ああ、そうかえ。」
と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。
 それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。
 例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、
「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」
と、非常に御満足の体であらせられた。
 これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。
 教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。
 こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。
 そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、
「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」
と、仰せられた。

  
 先月、子供の事で問題が起き、夫婦揃って参拝にいったことがありました。私は、問題があると、すぐに後先を考えずに財布の中のお金を賽銭箱に入れる癖があるので、一ヶ月分のお小遣いが無くなってしまうことも考えず、全部御供をしていまいました。もちろん後日、家内にもう一度お小遣いを下さいとお願いするという情けない結果になるのですが……。もちろんそれは、この御逸話を拝読させて頂くと「真心の御供」とは全く異なるものだとよく分かります。真心の御供のもっとも大切なことは、なによりもまず、神様ことを第一に考えているかということだからです。ついつい、私は、自分や家族の幸せを第一に考えたり、大難を小難にして頂いたことの喜びを第一に考えてしまいますが、神様に喜んで頂ける事を第一に考えてさせて頂くことが、本当の「真心の御供」ではないでしょうか。来年こそは、「真心の御供」が出来るような人間に少しでも近づけるよう頑張りたいと思います。
 

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