最初から多様性を受け入れられていたように、当然に寛容だったかのように振る舞うのはやめる


どうやら、この人は自分と違う属性で、自分と違う感覚をもって、自分の想像しえない人生を生きているようだ。
そう感じはじめるとき。

これまでの人生で得た分類のなかでは、どれと似ているのか、どうわかろうとしたらよいのかわからない。
この人と「どう関わったらよいのか」「どこまでは大丈夫で、どんな発言に傷つくのか」わからず戸惑っていた。

誰だって未知のものにふれるとき、最初はそうだったはずだ。


今の私は、自分と違う属性の人が社会にたくさんいるのを知っている。私が彼らの存在を肯定しようと否定しようと彼らは確かに存在するし、
私には彼らの存在を否定する権利などないことも知っている。
"私"の外に存在する人はすべて、私とは違う感覚をもって私の想像しえない時間を生きていることを知っている。
自分とどんなに近くたって、遠くたって、他人の気持ちを"100%わかりきる"ことは不可能なことも、うすうす感づいてきた。




でも、私は、
わからなくて戸惑っていたときの私を忘れない。


誰だって、関わり初めは"最適解"がわからないし、意識せず失言もする。
なぜそれが失言とみなされるのか、なぜ“何気ない発言”だったのに糾弾されなければならないのか、かえって苛立ってくる人だっているかもしれない。
(何気なかったからこそ罪深い、というのはある程度“学習”が進んでからでないと受け入れ難いのかもしれない。)


いま私は「誰かを傷つけるかもしれない発言」をすこしずつわかってきた。でも最初から全てわかってたわけではないし、いま全て想像可能なわけでもない。

わからない、けど傷つけたくなくて、自分を”当事者”と思いにくくてもわからないなりにわかるようになりたくて、
たくさん文章を読んで、実際に話して一緒に時間を過ごして、関わり方を"学習"してきたのだ。
たまたま、今もがいている人たちより少しだけ先に、よりよい関わり方をしたいと思うようになっただけ、なのだ。


"学習"を蓄積しはじめたところの人は、これから知ることが多かったり、不用意な発言や行動がまだ多かったり、不器用だったりするのかもしれない。

でも、その道の半ばにいることを笑ったり、マウントを取ったりするのはまったく建設的ではない。

気づいてくれてありがとう、「多様さにやさしい世界」をつくりたい仲間にはいってくれて嬉しいな、
一緒にやさしくありたいね、と。



でも、"学習途上"な言動に傷つけられる人がいることに目を瞑ることは決してしない。

意図的か、無意識かに関わらず、投げつけられた言葉は受け手に一生癒えない傷をのこす。


毅然とした態度で「その言葉に傷つく人がいるよ」とちゃんと伝える。
そして、どう伝えれば”学習をはじめた人”は嫌な気分にならないだろうか、考える。

いわば、「多様さを殺したくない社会」のなかで、「他者を不用意に傷つけずに、共生していくためのリテラシー」を身につけていないことを糾弾するのはとてもかんたん。
だけど言葉で殴りかかったり、先輩ぶってマウントを取ってみたって、不快にしない表現/態度が即座に身につくわけじゃないし、傷つきが癒されるわけじゃない。


私より後に生まれてくる人たち、
多様性な人々が存在することが当たり前の社会で育ってくるネイティブたちは、
私よりはるかに自然に多様な個々を受け止めていくのだろう。

あえて努力を要する"学習"をしなくても、当たり前に存在するその声を自然に受け取って学んでくるであろう彼らにはまた、私の"努力と受容"のプロセスの外側にある”常識”が見えているのかもしれない。


そしたら、ぜひ私にも「その言動は、傷つけるかもよ?」って教えてほしいし、
そのときに教えてもらえるくらいの気軽さを纏っている人で、ずっとありたいとおもうのだ。




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