苦しい経験をポジ変換できないままでも、視点を価値に捉え変えることができるのかもしれない / 障害受容日記#2


23歳で学校に不適応をおこして受診し、ADHDと診断されたフタバ。どこまでを障害と捉え、どこからは伸びしろと捉えるのか、そもそも障害とはなんなのか。凸凹と社会とのはざまの雑多な考えごと、不定期シリーズ。


自分のOOという苦手は、障害は、なければよかったのに。
他人と同じ土俵に立つためにこんなに頑張っても、まだ報われないのか。

そう思うことは少なくない。


今日は4月から入社する会社のキックオフミーティングで、(株)ミライロ 垣内代表のお話を伺った。

「僕だって歩きたかった、スキーもスノボもしてみたかった」
障害なんてなければよかった、という思いは消えないけれど、
障害があるからこそ生まれた自分の視点・強みを認識し、
自分にしか出せないバリューを出し続けている。

特に強く受け取ったのは、このようなメッセージ。


障害がなければよかった、と恨む気持ちと、
障害があったからこそ価値を出せた、と感謝する思考と、
このふたつが両立しうるんだ、なんて考えたことがなかった。

これまで、「障害じゃなくてGift」という捉え方をいくつも教えてもらったけれど、
「障害に感謝」といわれてしまうと気持ちがついていかなかった。

いや、なければよかったよ、と。

だけど、障害への恨みの気持ちを消そうとしなくても、
いま自分の視点を持てていることをバリューと捉えて作戦を練ることはできそうだ、そうしたいのだ。


今日は「両立できる!のか!」と衝撃が大きくて、終始同じことを何度も書いてしまった。
頂いた考え方を頭のかたすみに、また日々の経験を煮詰めたら新しい気付きが生まれそうだ。今日はこのへんで。

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