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【連作短編小説】「ジャパニーズ・フィフティ・ピープル」(山岸 哲夫)

 加賀屋町役場は職員数約二〇〇名程度でありほぼ全員が顔見知りといってよかった。
 そんな中で、若手職員同士で飲み事に行くと必ずといっていいほど話題にあがることがあった。"最も上司にしたくないのは誰か"ということである。
 その結果は少なくともここ数年は変わっていないため、最近では最初から"二番目に上司にしたくないのは誰か"について話をした。
 一番上司にしたくない男、山岸哲夫係長。哲也以外は誰もがそう言ったし、もちろん直属の部下もそのように思っていた。


 その日、哲夫はいつにも増して機嫌が悪かった。
 朝から最近娘が家で飼い始めた犬の尿を踏んで靴下はびしょびしょになるわ妻は寝坊したと言って自分の朝食を作らないわ、出勤したらしたであれだけ今週は忙しいから休むなと言っていたにも関わらず部下の田代は風邪を引いたとかで休みを取っている。
 どうしてどいつもこいつも俺を怒らせるようなことばかりするのか、哲夫は自分の不運を呪いたくなった。

「山岸係長、少しお時間よろしいですか?」

 無表情でパソコンを叩いていると、横に篠田が立っていた。篠田恵。今年採用されてこの税務課に配属された職員で、手にした書類から覗くピンクのネイルサロンが余計に哲夫の機嫌を逆撫でした。

「見て分からないかな? 僕いま忙しくて手が離せないの。もしかして見えてない? 派手な化粧で目の周り塗りすぎてるせい? あ、それとも君に比べて僕が全然仕事してないってことかな。それならごめんね」

 そう言ってへへっと笑うと、篠田は一瞬たじろいだ様子を見せた。

「いえ、そうじゃなくて窓口にお客さんが……」

 哲夫が窓口の方に目を向けると五十過ぎくらいの髪を七三に撫でつけた神経質そうな男が立っていた。どこかで見たことのある顔だった。

「なんだって? 係長がわざわざ出ないといけないの?」
「それが、田代さんの送った文書について言いたいことがあると」
「田代くんは今日休んでるよ」
「はい、そう伝えたらじゃあ上司を出して欲しいと」

 嫌な予感がした。上司を出せという奴にろくな人間がいないのはこれまでの経験上よく知っていた。
 窓口に聞こえない程度に舌打ちして、哲夫は窓口まで歩いていった。

「部下が送った文書について言いたいことがあるとか」
「あなたが係長? なんですかこの文書」

 哲夫は男の前に腰を下ろして男が放った文書に目をやった。
 書類は田代が送った固定資産税の納付書と納付を依頼する文書のようだった。

「これがどうしたと……」言いかけて、哲夫はその納付書の誤りに気がついた。その文書に書かれていた納付期限は、年度の表示が一年前になっていた。去年使った内容をコピーして打ち出した際に、年度を更新するのを忘れていたのだ。
 なにか言おうとして顔を上げた哲夫は、さらに最悪なことに気がついた。目の前に座っていたのは加賀屋町で最もたちの悪いクレーマーとして有名な白石稔だった。

「これ、届いた時点でもう納付期限過ぎてるけど、どういうことですか? 納付しなくていいってことですよね」
「いや、決してそういう訳じゃ」
「そういう訳? じゃあどういう訳なんですか」

 ただの記載ミスだと分かって言ってやがる。哲夫は苦々しい表情を必死で押し殺した。

 その時点で哲夫の部下である篠田と安達は窓口で起きている異変に気がついていた。そして普段はクレーマーが来ればうんざりして早く帰ってくれることを心の中で祈るのだが、今回ばかりは内心は白石稔の味方だった。
 態度が大きいだけでろくに仕事をしない上司をコテンパンに打ちのめして欲しいと思いながら、パソコンのモニターを見ながら耳だけでそのやり取りに注目した。

「こちらの記載ミスですので、すぐに新しい納付書と取り替えてーー」
「記載ミス? 優秀な加賀屋町の職員がそんな馬鹿みたいなミスをするはずないでしょう。それに、この納付の依頼文書、町長の名前が入ってますよね」

 確かに依頼文書は町長名で発出していた。

「もしミスがあったのなら、この文書の責任者の町長が直接謝罪するべきでしょう」

 こんな些細なミスで町長が出てきて謝罪する訳ないだろう! と激昂するのをなんとか堪える。哲夫は脂汗をかきながらそれはできないので新しい納付書で納付してもらいたいと訴えた。

 その後も払う払わないとか、誰が謝る謝らないとかいった周囲から見れば不毛ともいえるやり取りが二時間にも渡って続いた。
 哲夫は疲弊していったが白石は時間が経つほどにヒートアップしていき、哲夫はミスをした田代と己の不運を呪いながら対応を続けた。
 哲夫の釈明の言葉尻を捉えては執拗に責める白石の声を聞いていると、哲夫の脳裏に自分が若かったときの記憶がフラッシュバックした。
 哲夫がまだ新人だった頃、新卒で入庁し、農林課に配属された当初大きなミスが続いた。しかし当時の上司であった佐藤は愚痴の一つも言わずにその尻拭いをしてくれた。

「若い職員を守り責任取るのが俺の仕事だからな」

 佐藤はそう言ってミスを責める人やクレーマー相手に誠実に対応した。自分もいつか佐藤のようになれるだろうか、当時まだ二十歳そこそこだった哲夫は思った。

「聞いてるのか!?」

 白石の大声で哲夫はふと我に帰った。

「え、ええもちろん」

 過去を思い出したことで、哲夫が心を入れ替え白石の言い分に寄り添い誠心誠意対応するかといえばもちろんそんなことはなかった。哲夫はただ白石が早く諦めて帰るよう願った。過去はただの過去だった。

 哲夫がクレーマーから詰められているという噂を聞いて、他の課から用もないのに面白がった野次馬たちがやってきてクレーマーと粘着係長の対決を遠くから見守った。
 定時まではまだ一時間以上あった。どう決着が着くのか誰にも想像ができなかった。

 そのとき、白石の後ろに立つ人影を見つけた哲夫は顔を上げた。そこにいたのは水道課の大田課長だった。ヤクザのような風貌で、公務員のくせに薄い色の入ったサングラスをかけた粗暴な性格の大田を哲夫は密かに見下していた。

「久しぶりだな、稔」

 大田がまるで知り合いのように話しかけるので哲夫はギョッとした。さらにヒートアップするのでは、と身構えるが、そう声をかけられた白石は様子がおかしく、急に萎縮したように見えた。

「また来ますから。納得するまで絶対に私は払いませんから」

 捨て台詞のように言い残して、白石は去っていった。
 何が起きたのか分からないまま、哲夫は呆然とその後ろ姿を見送った。

「小中の同級生なんだよ、あいつ」

 取り残される形になった哲夫に大田は言った。

「そうでしたか」いじめっ子といじめられっ子の関係だったのだろうか、さすがにそこまで聞けなかったが、そんな二人の過去が哲夫には容易に想像できた。哲夫は見下していた大田から助けられた形になった。



 翌日、始業時刻ぎりぎりに出勤してきた田代は慄いていた。
 前日に、同僚の安達からLINEで田代の犯したミスと、上司とクレーマーの対決について聞かされていた。その報告を聞いて田代が青くなったのは言うまでもない。

「あの、昨日、納付書の件、ミスしてたみたいで、すいませんでした」

 哲夫は嫌味ったらしい目で、頭を下げた田代を見やると深いため息をついて言った。

「あのね、どれだけ僕を困らせれば気が済むの。だいたい君はいつもいつもーー」

 クレーマーにも勝るとも劣らない一時間を超える嫌味を言い始める前に、「若い職員を守り責任取るのが俺の仕事だからな」と言った佐藤はやはり尊敬できる上司だったのだな、と哲夫は思った。ま、どうせ俺は"一番上司にしたくない男"だからな、と。




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