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【連作短編小説】「ジャパニーズ・フィフティ・ピープル」(佐々木 千佳)

 SNSは毎日のようにどこかで炎上している。だがこれほど炎上を身近に感じたことは千佳にとって初めてのことだった。自分自身が炎上した訳じゃないにも関わらず、だ。
 きっかけは、だいたいの炎上がそうであるようにささいなことだった。とある妊婦がSNSに投稿した一枚の写真が、心ない言葉とともに拡散されたのだった。
 その内容は、妊婦が産休に入る際に『産休をいただきます』というメッセージとともに赤ちゃんのイラストが描かれたクッキーを配ったというものだった。批判する人たちの意見としては、仕事の皺寄せを受ける同僚や子供が欲しくても持てない人たちへの配慮に欠ける、というものだった。
 そこにはイラストに関わらず、お菓子自体を配るのもいかがなものかという意見も多くあった。

 その炎上騒動を知った千佳は戦慄した。
 出産を七週間後に控えた千佳は来週いっぱいの勤務で産休に入る予定だったし、まだ購入こそしていないものの、同じようなクッキーを買って配ろうかと考えていたところだった。
 夫の卓に相談しようかと思った。だが町役場の財政課に勤める卓は連日激務で帰りが遅く、相談しても適当な返事をされるに決まっていた。
 卓のことは愛しているが、千佳はいろんな問題を一人で解決しなければいけない、という不安感をいつも持っていた。町の財政なんかどうでもいい、もっと大事なことが目の前にあるではないか、千佳はくたびれた夫の姿を見るたび、そんな言葉をぐっと飲み込んだ。
 マンションの隣の部屋の田上さんのところはいつも夕方には旦那さんが帰ってきて一緒に夕飯の買い物に行くのだという。田上家には田上家で表には現れない問題があるのだろうが、子供がいない二人の余裕ある生活や協力し合う姿が千佳には眩しく写った。

「ママ、お腹空いた」

 気づけば後ろに蒼太が立っていた。四歳になったばかりの蒼太は、さっきまでリビングで昼寝していたはずだが、起きてしまったのだろう。

「すぐご飯作るから待っててね」

 土曜日の夕方だというのに、今日も卓は休日出勤で家にいなかった。
 カレーのルーが余っていたので夕飯はカレーにした。野菜を煮込む間も、千佳はずっと炎上したクッキーへの意見を読み続けてしまった。


 千佳は短大を卒業してから介護の仕事をしていたが、友達の紹介で卓と知り合い結婚したことをきっかけに一度仕事を辞め、蒼太が二歳になったタイミングで今の医療機器のメーカーに勤め始めた。介護の仕事は嫌いではなかったが、どこも人手不足であるため休みを取りづらく、小さい子供を育てながら働くのは諦めたのだった。
 千佳が所属する経理の部署には全部で六人の職員がいた。男性は二人だけであとは女性だった。
 同僚が全員男性ならこんなに悩むことはなかったのに、千佳は本気でそう思った。産休に入った職員が配るクッキーについて文句を言いそうな男性は少なくともこの部署にはいなかった。

「ちょっとそれって考えすぎ」

 昼休みに思い切って同期の堤遥を呼び出して相談したところ、そのように笑われてしまった。遥は千佳とは別の総務部に所属していた。
 千佳はスクリーンショットして保存しておいた炎上コメントを一つ一つ遥に見せてやった。

「うわー、クッキー配るだけでこんなことになるんだ。こんなの気にしてたら生きづらくて仕方ないでしょうに」
「生きづらいから困ってるのよ」
「でもこのコメントとか寺岡さん言いそー。あ、こっちは谷口さんとか言うかも」

 それはどちらも経理部にいる千佳の同僚の女性だった。寺岡さんは四十代で独身であり、どうも結婚や子供というものに思うところがある様子で、谷口さんは若いが性格がきつく、なにに対しても文句を言う人だった。

「まあ、メッセージとかが入った物はやめといた方が無難かもね、適当なお菓子かなにかを一つずつ配ってお茶を濁しとけばいいんじゃないの。ま、私は二人産んだけど一度もそんなの配ってないけど」

 遥のそのような性格が羨ましくあったが、お菓子を配らずに文句を言われるならまだ配って文句を言われた方がマシなような気がした。ただ、やはり配慮の足りない女だと思われるだろうか。いっそのこと一人ずつお菓子がいるか聞いて回るか……やはりいくら一人で考えても結論は出なかった。


 その夜、卓が家に帰ってきたのは十時を過ぎてからだった。福祉課の障害者を支援する係の係長と来年度の予算について言い合いになって疲れたとボヤいていた。障害による被害妄想のある人からの電話に時間を取られるから専門職を増やしてほしいと言われたのだという。

「蒼太は? もう寝ちゃった?」
「とっくに」
「明後日だっけ? 検診」
「そうだね、ついでに職場に配るお菓子も買ってこようと思って」

 数時間前まで買うべきか買わないべきか、あれほど悩んでいたはずだが、無意識のうちにそんな言葉が口から出て自分でも驚いた。

「へえ、やっぱりそういうのいるんだ。役場じゃちょっと前に禁止になったけどな」
「禁止になったりするの?」それは千佳にはちょっと衝撃的な発言だった。
「ああ、有給を使っただけでお礼のお菓子を配る人なんかもいて、もらった方も逆に気使っちゃうとかいう理由で。バレンタインもホワイトデーも全部禁止。俺は産休のお菓子くらい配ってもいいと思うけどな。せっかくだからコウノトリが赤ちゃん運んでるイラストのクッキーとか」

 卓の言葉を聞いて、千佳は思わず噴き出してしまった。
 根本的にはなにも変わっていないにも関わらず、どこか肩の力が抜けていくのを感じた。

「あのね、その話のその部分ってもう何周も前に終わってるとこなの。でも相変わらず、あなたのそういうとこいいよね」
「なんだよそれ」

 卓は不思議そうな顔をしていた。炎上クッキーのことは言わなかった。見せたところで卓の意見は変わらないだろうし、我が家の主の気持ちはもう分かったのだから。


 水曜日、午後から蒼太の手を引いて産婦人科で検診を受けた。赤ちゃんは元気に育っており、写真では美人そうな横顔を確認することができた。
 デパートに寄ってから帰っていると母から電話があった。

「どうしたん? 電話とか久しぶりやん」
「ちょっと蒼太の声が聞きたくなってね」
「いや今日って本来、私仕事の日だから。蒼太も幼稚園」母はなぜか昔からこういうタイミングは外さなかった。千佳はスマートフォンをスピーカーモードにして蒼太に渡した。

 蒼太はたどたどしい言葉で、ママと一緒に病院とデパートに行ったことを祖母に伝えた。

「あら、デパートに行ったなら、なにかお菓子でも買ってもらった?」

 そんな祖母の言葉を聞いて、蒼太は困ったように自分を見上げるので、千佳は言った。

「ハート型のクッキーいっぱい買ったから、二人だけで食べて、余ったらパパとママの職場の人にもあげるんだよねー」

 蒼太は祖母に伝えるのも忘れ、「うん!」と笑った。さすがにイラストの入ったクッキーは買えなかったけど、最愛の息子が選んだハートのクッキーなら文句あるまい。きっと。

「あなた、珍しく機嫌良さそうね。なにかあった?」
「別にー。母さんと違って考えすぎてめんどくさくて要領が悪いのが私だなー、って」
「そうだよ。その点、蒼太は私に似たみたいで安心したよ」
「はいはい」

 千佳は電話を切ると、夕焼けの中を蒼太の手を握り歩いた。出産予定日まではあと六週間と三日だった。



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