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『同化』と『異化』、『接続』と『切断』

前回記事の【伝える、伝えられない。伝わる、伝わらない。】の続きで今日は、自分にとって心地よいコミュニケーションとは何か?について考えたり感じたことを書きたいと思います。

伝えるは伝えられないしかないが、伝わるはある。という前提でコミュニケーションを考えても、それでもこちらの気持ちがいつもほぼ真っ直ぐに届く人と、いつも全然届かない人が居るのは誰もが感じることだと思います。

まぁ、簡単に言うとこれが相性ってやつなんだと思うのですが、その相性の良い悪いはじゃぁ何で決まるんだろう?って気になったんですよ。

好きなら伝わる?嫌いなら伝わらない?

伝わるという意味での相性の良さって、好き嫌いの問題ではないなと私は考えています。

例えば、学生時代からずっと仲が良くていつも真っ直ぐコミュニケーションがとれていた人が居て、自分の中ではその人が好きだという気持ちは変わらないのに、ある時ふとなんかズレてる気がしてなんとなく居心地悪いなってなることがある。

例えば、この上司めちゃくちゃ嫌いなんだけど、でもこの人が自分に対して行なう評価や指摘はいつも的確で間違って無いんだよなって納得できる関係性もあったりするわけです。

好き嫌いなんて感情の枠外の初対面の人でも、伝わってるなって感じられて楽しく会話できる人もいれば、ずっとピントが合わなくて気持ち悪い会話しか出来ない人もいる。

だから、好きとか嫌いとかいう感情は、伝わりやすさには関係無いんだろうなと。

環境に共通項や類似性があれば伝わる?

好き嫌いと同じくよくある論点として、共通項が多かったり類似性が高い人だと会話がしやすく感じるというのがあると思います。

同郷、同世代、同業、同じ部活、同じ趣味、同じ年の子育て中などなど、こういう『同じ』を見つけた途端に会話が弾んだ感じがするというのはあるあるかと思います。

あるあるなんですが、これも伝わりやすさとは違うと感じています。
共通の話題を展開しやすくなることによる会話が楽になる部分はあるけれど、これって伝わってはないんですよね・・・。

なんと言いますが、お互いにあるあるだと思っている事や自分の体験を提出しあってるだけで、心は交わっていないし、お互いのモノの見方や考え方を分け合うようなものではない、イコール、伝わるとはなんか違う。

なんか違うんだけど、このあたりに伝わる人が潜んでいる事が多いのも確かで、何かあるはずなんだよなって思っていたけど自分ではわからなかったことが、先日理解できるようになりました。

Iさんはこれを他者と自分は違うということを受け止められているかどうかの違いだと言い、またNさんは、そもそも生物として違う生き物であると言っていました。

『違う』を前提としたコミュニケーション。

Iさんは行政書士受験生時代に出会った年上の男性の方で、当初は勉強の仕方を教えてくれたり、予備校の後に二人で近い将来の目標や事業計画を何時間も話し合ったりして過ごした人で、私は行政書士として、Iさんは福祉事業者として同時期に開業し、今はお互い経営者として定期的に食事をしたりする仲の人です。

ここだけでもわかると思いますが、私とIさんにはあまり共通項はありません。
生まれ育った家庭環境も、学歴も職歴も現在の家庭環境も全然違います。

でも最初からずっと「伝わってる」という感じは強く在ったし、10年経って出会った頃とはお互い変わったものがたくさんあるのに今も真っ直ぐ伝わっている感覚があります。

でもこの10年で伝わらなくなっていった人もたくさん居て、そのことをIさんに聞くと、Iさんも同じように真っ直ぐ伝わらなくなっていく関係が増えたと体感しているようでした。

その人達と私達と、一体どこに差があって、どうなれば伝わってることを楽しめる間柄になれるのだろうか?と話している時にIさんがこういうことを仰っしゃりました。

「それは德留さんが、俺とか他人に対して自分と同じところに居てほしいとか全く考えてなくて、自分と俺は違うって明確にしていることとか、自分が行きたいと思えば自分もそこに行くしって考えててそれが実行出来る人やから、他者の成功に嫉妬の感情が無いことが大きいと思う。」

自分と他者が『同じ』であることが心地良いと考える人は、『自分と同じではない部分』を相手に見つけるとそこにネガティブな感情が働き、攻撃的になったり、嫉妬したり、その部分に強固な蓋をして絶対に見ないようにしたり、という『反応』を無意識化で示してしまうことが多いとのこと。

私の場合、Iさんがどのステージに居た時でもずっと反応が変わらないことが伝わっていたようです。
そう言われるとすごく納得できる部分がありました。

私は相手が誰であれ、『同じ』を延々と探していく会話には昔から意味を見いだせなくて得意ではありません。
むしろ、私と相手の『違う』を見つけてその違う部分について聞くのが好き。

そう言うとIさんも、「俺もそうやねん、『同じ』を確認するなら自分一人で出来るから、人と話すなら自分と違う話や意見が欲しいと思う」と。

私とIさんは『違う』を前提としたコミュニケーションが好きという『同じ』があって、お互いの『違う』を受け取ってその『違う』を自分の中に一度入れて咀嚼してみることでお互いに自己確認をしているという関係性なんだろうね、という結論になりました。

お互いを同期するために交流しているのではなく、それぞれに自分なりのアップデートをするための交流、というとすごく独りよがりな関係性のようですが、これがお互いに心地良いから10年も続いているわけです。

テーブル越しのコミュニケーション。

行政書士の中村さんという、1年に1回、テーブルを挟んでお茶をするという間柄の人が居ます。
中村さんにこの一連の話をしたところ、こう仰っしゃりました。

「そもそも生物として違うということを認識した方が良いよ。根本的に違うんだから分かるとか伝わるとかないよ。自分と同じ生き物だと思うことはトクティにとっても相手にとっても辛いことやからやめたほうがいい。」

めちゃくちゃバッサリいくやん・・・とツッコミつつ、中村さん曰く、人間は全てが同じではなく、最初から違う生物が同じような人間という形をとっているのか、進化の中で違う生物に分かれていったのかは不明だが、とにかく根本から違う生き物なんだと。

わかりやすく言うと、アムロ・レイはニュータイプという従来の人間とは違う生物だったのにそのことがわからず、ニュータイプではない人間と同じであろうとしたからずっと孤独だったのだと。

中村さんもまた『違う』を前提としたコミュニケーションをしている人で、中村さんと私は特別仲がいいと思ったりするような間柄ではない(好きだけど心を通わせ合ったりはしていない的な)のに、何時間でもおしゃべりできるし、どの話も楽しい。

私が話していて心地よいと感じる人を振り返ってみると、全員がそういうタイプであると気が付きました。

私にとって心地よいコミュニケーションがとれる人というのは、『違う』が前提になっている関係性であることが大事なんだなと。

中村さんは奥様以外を隣に座らせることはなく、絶対にテーブル越しにコミュニケーションをすると決めて常に実行している人です。
この『テーブル越しの距離感』が中村さんの境界なんですね。

なぜ隣ではダメなのか?と聞いたところ、「相手がちゃんと見えないからレスポンスが悪くなる」というようなことを言っていました。
あぁこれ、なんとなく言いたいことがちょっとわかるなぁと思いました。

中村さんがどうかは不明ですが、私が誰かと会話する時は、相手から発せられる情報は全てキャッチして会話を進めますし、当然自分も全身を使って会話を表現しています。

自分のどの表現に相手がどう反応したかとか、相手が起こす無意識の反射を楽しんでいるというか、まぁそんな感じです。
そう思ったら私も横並びよりテーブル越しの方が好きだなと思いました。

『同化』と『異化』を考える。

ここまですごく具体的に会話の中で見つけたことや考えたこと、感じたことを書いてきましたが、これらが全て、先日書いた伊藤雄馬先生のセミナーに帰結していたんですね。

関係性の中には『同化』と『異化』があって、めちゃくちゃ簡単に言うと、自分と相手を同じものだと認識して関係するか、違うものだと認識して関係するか、ということ。

最初にこれを聞いた時に私は、誰かとの関係には異化しかないに決まってると自分の中では明確だったので、同化コミュニケーションの意味がわからなかったんですね。

ここに自己矛盾があったことにIさんや中村さんとの会話で気がついたんです。
コミュニケーションは異化しかないっていうのが私の真ん中や根っこにどっしりとあるのに、出来もしない同化コミュニケーションをしていたということに。

年齢を重ねるにつれて、誰かと衝突するのはめんどくさいから、とか、この人には気に入られたいから、とか腹ではなく頭で考えて、自分に合わない同化コミュニケーションにチャレンジし続けていたんですね。

そりゃ~歪みも出るよなと。
突発性難聴になったのはそういうことが体に出たのかな~なんて今となれば思います。

私は異化コミュニケーションの人だから、同化コミュニケーションの人とは思考方法やルートが違うので真っ直ぐ伝わらないのは当たり前だし、それは努力しても仕方ない。

私は同化コミュニケーション出来ますよって見た目だけ取り繕って扉を開けてるフリだけしてみたって、お互いに気持ち悪い思いをするだけでなんの意味もないとわかりました。

『接続』と『切断』を考える。

同化は相手と自分を同じものだと思うこと、異化は相手と自分が違うものだと思うことと簡単に説明しましたが、これが奥深いのは、『同化=接続』、『異化=切断』ではないということだと思います。

異化が切断であれば誰とも関係性が無いということになります。
例えば、関係性を切断することで成立するコミュニケーションでよくあるのは満員電車等のたくさんの人がいる公共の場ですね。

袖摺り合っている周囲の人と自分を切断することでお互いのストレスを減らしながら摩擦を起こさないようにして社会性を維持している、これは切断のコミュニケーションかなと思います。

切断も異化の中に含まれていますが、私が好きなのはずっと書いているように、『違う』を認め合うコミュニケーションです。

もちろん『同じ』が全くない人なんて居ないので、『同じ部分』もあって当然だし良いんですが、自分と同じものや自分の理解が及ぶものにしようとして他者から引っ張られたり歪められたりするのが極端にしんどいんです。

同化コミュニケーションの全部が苦手というわけでもなくて、自分や相手を無理矢理に捻じ曲げてまで同じ形にしようと許可を出していないにも関わらず勝手に接続しようとしてくる人が苦手。明らかな侵略行為。

「あなたも私と同じでこう思ってるよね絶対!」って善意で全然見当違いなことを言われる関係はすごく気持ち悪いけど、「全然わからん!」って笑ってくれると「私もあんたにこの気持ちをよぉ説明できひん!」って一緒に笑えるというか。

同化コミュニケーションを主とする人でも『同じを認め合う』だけで勝手に接続しようとしてこない人とは楽しい時間が過ごせたりするので、同化が私にとって悪ということでは全く無い。

これが更に異化コミュニケーションの人だと、「あなたはそうなんだね、私はそれについてはこう考えてこう対応しています」という返事をいつもくれているように感じています。

違う人だと認識しているから理解し合えると思っていないので、他者に接続しようとしないし、接続されるのを拒む。
それゆえ、割とよく人から冷たいって言われがちなのが異化コミュニケーションに分類される人の特徴なのかなと思います。

そんなわけで、勝手に接続しようとされたら切断する、というのが私の自然なコミュニケーションだったのですが、同化と接続、異化と切断の違いがわかっていなかったのでどうやらごっちゃに絡まってたようです。

絡まった中で更に、”こうあらねばならない”という社会の中で求められる自分で成果を出さなくてはならないと思い込みすぎてその違和感に向き合ってこなかったんですよ。

言葉を選ばずに言えば、自己肯定感を高めたいというだけの欲求の一点押しのみで、そこにはなんの成果も発生し得ないのに、相手になんらかの負荷を当たり前意識でかけてくる人とは、そもそもコミュニケーションなんか成り立つはずがないということを思い出しました。

今日からはシンプルなコミュニケーションが出来そうで、そんな自分にとてもワクワクしています。

コミュニケーションを考えた総括に代えて。

「思ったことは”必ず”口にするようにしている。口に”出来なかった”ことは、二度と思わないようにする。」
この誓約を自分に課している経営者の方の話を聞きました。

この誓約、めちゃくちゃ難しくないですか?
口にできなかったからって、思ったことを自分の中から無くすことってそう簡単なことじゃない。

だからこそ、『思ったことを必ず口にする』というところが重くなるんですよね。

私は、実現したいと思っていることは人前で口にする、しかも、できるだけ多くの人に言うか、大勢に言えるようなことでない場合は尊敬している人にだけは言うようにしていました。

実行して結果を出さなきゃこの人に会えない!ってとこに自分を追い込むためにやっていたことで、この誓約のおかげで頑張れたことがたくさんあるのですが、今日から私もここに”必ず”という一語を含めようと思います。

先週に考えた事や気づいたことはまだまだたくさんお題があるのですが、長くなったので今日はこの辺で終わりにします。
おつかれさまでした。

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