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【随筆】ろくでなしの系譜

その1「諫早」
長崎県諫早市。私はそこで生まれた。原口名と言う村だと、聞いた事がある。が、そんな村があるのかないのか、確認した事はない。

生まれたのはいいがひどい未熟児だったそうで、母に抱かれる事もなく飼育箱に入れられた、と後で聞いた。何のことはない、生まれた途端に一人だった訳だ。書きながら苦笑する私がいる。

記憶があるのは、三歳からである。巨大な誕生日のケーキがあった。吹き消せないろうそくの灯を、代わりに父が吹き消した、ように思う。ケーキが巨大だったのは、私が小さかったからであろうし、これとて本当に三歳の誕生日かどうかは、疑わしい。ただこれが記憶にある、最初で最後の、親に祝って貰った思い出である。だから脳内に、未だ大事に取ってあるのかも知れない。

次の記憶は、近所の子供と三輪車を取り合いした事と、深夜の夫婦喧嘩だ。
寝ていた私はただならない怒声で、目を覚ました。やがてガラリとふすまが開いて、大きな黒い影に抱き抱えられた。父である。父はそのまま私を抱いて家を出た。そうしてそれきり戻る事はなく、だから私は母の顔を知らない。

後年、成人して就職する時になり、戸籍謄本と言うものを初めて取得し、ようやくそこで母の名前を知った。20年以上、産みの母の名を知らずに生きてきた訳だ。まぁ、そんな事もあろう。三歳くらいだった私は父に連れられ、それから九州中の雀荘を泊まり歩く事になる。


その2「伝承」
父は長崎生まれの長崎育ち、生粋の長崎っ子である。
高校生の頃は野球に没頭し、キャッチャーとして甲子園にも行ったらしい。キャッチャー時代の写真を持っていて、良く見ると後ろに巨人の川上哲治が写っている。ミットを構える父を凝視する川上氏を指差し、高校を出たら巨人に来ないかと誘われたものだ、と聞かされた。

本当か嘘か、私にはわからない。その白黒写真の人物は、当然キャッチャーマスクを付けていて、第一顔が良くわからない。しかし、話の真偽など、私にはどうでも良かった。父が大好きな幼い私は、はにかむような誇らしいような、その話をする時の父の顔が嬉しかったのだ。

その後、父は巨人を断り、早稲田進学を試みる。試験には合格したものの、貯めておいた筈の入学金が無い。父の父、つまり私の祖父が使い込んでしまったのだ。このくだりは祖母から直接聞いた話なので、信憑性は高い。

18歳の父は憤慨激高して、家を飛び出る。そのまま和解しない内に、祖父は亡くなったそうだ。家出した先で結婚し、生まれたのが私である。だから私は祖父の顔も名前も、いたのかどうかさえ長いこと知らなかった。
祖父のろくでなしぶりは、しかし父にも脈々と受け継がれており、後に私も18歳で家出して、出た先で結婚し子をなす事になる。そうして離れ離れに暮らす私の娘も、やはり私の父の顔も名前も知らない。
私はろくでなしの三代目だったのである。こう振り返れば、苦笑いと共になるほどと首肯せざるを得ない。二代続けて、ろくでなしを嫌って飛び出たが、実は自分達もろくでなしだったのだ。

父は役所を辞め、サラリーマンを辞め、ろくでなしに必須科目の麻雀に打ち込む。三歳の私を連れて、麻雀武者修行、麻雀放浪記、雀荘から雀荘へ渡り歩いては打ち続ける。いつもそばで点棒や牌で遊んでいた私が、何故か雀荘の二階で遊ばされた事があった。
そうしてその時のその雀荘は、柱一つ残さず全焼する事になるのだった。


その3「炎上」
くる日もくる日も、あちこちの土地で雀荘を渡り歩く。こちとら暇で仕方ない。

ある日雀荘の二階、恐らく経営者の自宅であったのだろう、そこでゴロゴロしていた。余程の期間、雀荘で過ごしたにも関わらず、習わぬ経はやっぱり読めず、何一つ覚えなかった所を見れば、いかに麻雀に興味が無かったのか判る。

この日も対戦を見るでもなく、二階で何か遊ぶものはないかと探していた。100円ライターなど無い時代である。大きなマッチの箱があった。今どきはなかなか見かけないが、子供の顔くらいの大きさである。三歳か四歳の私は、始めはマッチ棒を並べたり、立ててみようと挑戦してみたりしていたが、やがてそれも飽きた。

父は煙草吸いだったので見慣れていたせいもあろう、ふと一本擦ってみた。バッと一瞬燃え上がってから安定し、軸を燃え進む。父の真似をして、フッと吹き消した。何だか、面白かった。

また点ける、また吹き消す。何本やったかは覚えていないが、フッとやっても消えない。慌ててまた吹く。消えない。ほどなくつまんだ指まで燃え進み、熱さで指を離してしまった。落ちた先には、今まで消しては捨てたマッチ棒の燃えかすが、まるで薪の様に積み重なっている。

あ、と思う間もなく薪は炎の塊となり、周囲に広がり、カーテンに燃え移ってもうはや私よりはるかに大きく激しいものになった。
通行人が窓に映る炎を見つけて、一階の雀荘に駆け込んだ。
雀荘の主人と父、その他の客達が、我先にと二階に駆け上がる。
目に入ったのは、燃え盛る炎と大人を見て我に帰り、わんわん泣き始めた子供である。

父は思う様、私を張り飛ばしてから消火を始めた。
他の客達もバケツリレーに参加するが、徹夜続きの雀狂達、こんな実務は苦手と見えてなかなかはかどらない。主人は最低限必要なものだけをタンスから取り出すと、今は人命第一とみんなに避難を乞う。

主人は荷物を、客は私物を、父は私を抱えて外に出れば、炎はこの家もはや我が物とばかりに蹂躙し、手のほどこし様もなく壁から屋根へと燃え移り、二階がすっかり燃え落ちる頃にようやく消防隊が到着、その消火準備の間にも負けてなるかと舐め尽くす炎に一階もやられ、消火ホースから水が出る頃にはもはや詮なし、ただ延焼を防ごうと周辺から水を撒き始める始末となってしまった。

その4「父の再婚」
子供心のあさましさ、私はそれほどの大事件を起こしながら、ほどなくこの件を忘れてしまう。
父が翌日以降私を祖母に預けて、しばらく帰らなかった。

ようやく帰ってきた父はすぐに就職し、スーツにネクタイで働き始めた。その職場で手先が器用で料理も得意、気が強そうな目鼻立ちのはっきりした美人を射止める。再婚する運びになったが、父は子持ち、まずは私を懐柔せんとした。

度々祖母宅を訪ねては、お菓子やおもちゃを持ってくる。
私は当時からおかしな子供で、いつも新聞をおもちゃがわりに持ち歩いていた。祖母に字を教わりながら、「ながさきけん いさはやし」、「こっかい よさん」、「ながさきしでみめい さつじんじけん」などと音読して祖母に誉められるのを楽しみにしていた。

怪獣人形など、何の興味も無かったが、一度「せっかくお姉ちゃんが買うて来てくれたとば、こぎゃん喜ばんごたんじゃ云々」と、ひどく怒られた。それからは気を付けた。あの姉ちゃんも姉ちゃんのおもちゃも、全然好かんばってん、喜ばんと父ちゃんが困るごたる、父ちゃんと婆ちゃんには喜んでほしかぁ。
必要以上に喜んで、また、なついて見せて、一同が安心した顔を確認すると部屋に戻って新聞を読んだ。姉ちゃんの土産には絵本もあったが、平仮名ばかりでつまらなかったのだ。また一つ漢字の読み方を覚えて、婆ちゃんに誉められたい、婆ちゃんは誉めるとコーヒー牛乳を買ってきてくれる。

五歳程度の子供でも、なかなかどうして計算高いものだ。
人は自分が大人になるとそれを忘れて、純真無垢な子供などと言うが、子役に天才が多いように、いや「天才的な子役」なのではなく、子供は皆天才なのである。
大人の思惑を汲むなど、幼児の頃から皆やっているじゃないか。騙される、あるいは騙されて見せるのが、大人である。

やがて連れ子の懐柔も済んだとばかりに、私が小学校にあがるタイミングで父は再婚した。結婚式には連れて行かれず、祖母と共に移った新居で新郎新婦を待った。
「もうすぐ父ちゃんと姉ちゃんが来るけん。来たらもう姉ちゃんなどと言うたらでけんぞ。姉ちゃんの事は、今日から母ちゃんと言わんと。よかか?母ちゃんじゃけんな」

私は頷いたが「お母さんと言うた方がよか?」と聞いてみた。婆ちゃんと父ちゃんが喜ぶなら、そんな事は何でもなかった。大体、実の母なんて顔も名前も知らないのだ。大人は変に気を遣うと思った。祖母はしばらく考えて、やっぱり母ちゃんで行こう、と言った。

「あんまり出来すぎとると、ようなかかも知れんけんな」私は深く頷いた。
祖母は私の心を、見通していたのかも知れない。しかし、式を終えて新居入りする新しい母は、私の第一声、
「お母ちゃん、おかえんなさい」で、階段から転げ落ちそうになるほど驚いたものだった。裏目に出た作戦は、後々私が18歳で家出するまで尾を引く事になる。

そうこうする内に、私は長崎県立北諫早小学校に入学した。


その5「天邪鬼」
私は、幼稚園と言う所にほとんど行っていない。
ちょっとだけ行った記憶があるが、皆が外に行けば教室に残り、皆が帰って来ると一人で外に出る天邪鬼な子供だった。他の子と一緒にいると、ケンカばかりしていた。

未熟児だっただけあって体力が無く、力ではいつも負けていた。だから加減無く、石も使えば棒も使う、噛み付きもするし何でもやってケガをさせた。ほどなく幼稚園から祖母に電話があり、来ないで欲しいと言われて行かなくなった。

だから幼稚園時代の友達がゼロのまま、小学校に入学した。そうして私はここで初めて、自分のどもりを自覚した。家では祖母も父も気を遣って、私がどんなにどもっても、うんうんと聞いてくれていたに違いない。

祖母に連れられて、どもりを治す為にお寺に通っていた気もするが、あまりにうっすらした記憶で定かではない。
小学校で私は幼稚園同様、友達ができなかった。口を開けば、ひどいどもりで爆笑を買うのが不愉快だった。
俺は一人でいいのさ。全然協調性が無かった。

授業中、急に立ち上がって何も言わずに教室を出て、そのまま隣町まで散歩に行ったりした。
北諫早小学校は山の中腹の様な所にあって、通学はなかなかに体力を要した。大きな道で行くなら、なまずのいる川沿いに大通りまで進み、自転車では登坂不可能な急な坂を延々登らねばならない。ショートカットするには、蛇の豊富な山道をくねくね上がっていく必要があった。私はほぼ、山道を選択していた様に思う。蛇や蛙やかぶと虫にかみきり虫、そうした生き物を見ながら歩くのが好きだった。
体育が見学ばかりで、水泳ができなかった為、川沿いが怖かったのかも知れない。

後年、体力は見違えるようについたが、結局かなづちのまま、現在に至っている。
風呂だって、深いのはイヤだ。海水浴場に遊びに行った経験は、この51歳に至るまで一度も無い。台風でもくれば、すぐに堤防すれすれまで増水する川だった。無意識に避けていたのだろう。

かくして山の道無き道を、好きな動物や昆虫と遊びながら、体力の無い一年生が一人で登校するのである。

毎日が遅刻であった。


その6「火傷」
どうせ早く行った所で、どもりを馬鹿にされる時間が増えるだけだし、授業もつまらなかった。一番苦痛だったのは国語の、朗読だった。
相撲のシコを踏まなければ、最初の言葉が出なかった。
殊にも「あ」行が、全く出なかった。つまり、ありがとう、いいえ、うん、おはよう、と挨拶と返事が出来ないのだから、その待遇たるや想像がつこう。

一番楽しかったのは、国語の書き取りだった。漢字は祖母と新聞のおかげで読めないものは無かった。書く稽古が楽しくて、その日覚えた字を祖母に報告するのがたまらなく嬉しい時間だった。

父も新婚でもあり、大概早く帰って来た。私より早く帰宅する事もあり、そんな日は家の屋根に登って瓦に腰掛けて私を待っていた。
体力も無くどもりでもある出来損ないの私が、心配だったに違いない。
視界を遮るものも無い田舎の事、はるか遠くからでも屋根の上の父は確認できた。いつもは走ったりしない私が自分から走りだすのは、屋根に父がいた時だけだった。

新しい母の記憶が希薄な分、祖母の記憶は強く残っている。
ある冬の日、私は学校帰りに焚き火を見つけて近づいた。
黙って火を見つめたまま、随分当たっていた様に思う。
珍しく履いていた長ズボンの裾に火が燃え移り、靴下を溶かして皮膚が焼けるまで、熱いと思いながらも木偶の坊の様に立っていた。焚き火の家の人の叫び声で我に返り、ようやく猛烈な痛さと熱さに転げ回った。家の人が慌ててバケツに水を汲み、私の足に何回と無く掛け続けた。

医者に行って靴下を脱がされたが、靴下と一緒に皮膚まで剥がれて、見られたものでは無かった。祖母が医者から戻った私の火傷を見た。難しい顔をして、悲しんでいた。
なんばしちょったとやろか、熱かともわからんとやろか、と言いながら泣いていた。
祖母を泣かせた事で、私は初めて後悔した。気をつけようと思った。
祖母はアロエの皮を剥いで、私の火傷に張りつけ、包帯でくるんだ。痛みの中にも冷たい感触があり、何だか治ってしまう気がしたものだった。

翌日、私の包帯を解いた医者は大層驚いた。自分の治療の代わりに、アロエが並んでいたからだ。医者はこんな事をするのはけしからん、無知にも程があると口を極めて怒った。家では祖母も叱られたらしく、口をへの字に曲げたまま、しゅんとしていた。
私は祖母が否定されたのが悔しくて、真面目に医者に行かなくなった。病院なんて大嫌いだと、思った。医者代を貰って一人で通院するのだが、三回に一回はさぼって、行ったふりをした。
医者代が浮いて、小遣いになる事も覚えた。
こうして私の左足には、今も醜い火傷の跡が残る事になったのである。


最終話「夢」

二年生になっても一向に馴染まず、口も利かずいつも一人で、同級生と触れ合えばいざこざを起こして親が呼び出された。

授業参観に来た父親が、私のあまりの勝手な振る舞いに腹を立て、授業中にツカツカと私に近づいて力一杯殴り、「二度と来ん」と叫んで、以降何が有ってもその言葉通りに来なかった。

またある日、新しい母の育ての親に会いに行った。母は原爆で孤児となり、カトリックの教会で成人した。自然、敬虔なクリスチャンであり、後に産まれる私の妹や弟も洗礼名を持つ事になる。
父は断固として洗礼を拒否し、私にも受けさせなかった。しかし妻の親代わりの方である。私を連れて家族で挨拶に出掛けたのだった。

聖母は、小学生低学年の私に優しく尋ねた。
「大きくなったら、何になりたいの?」子供なら例外なく質問される事である。ちょっと頭の良い子なら、その場に合った微笑ましい答えを、日頃から用意するかも知れない。
例えば私の娘は幼い頃、同様の質問を受けて「大きくなったら、キティちゃんになるの」と言って周囲を和ませたものだ。

私がろくでなしの系譜を継いでいる事は、思えばこの時に証明されていたのである。

少し考えている私を皆が覗き込んだ。誰もが微笑ましい、子供らしい答えを期待していた。
「何になりたいのかな?」誰かが重ねて聞いた様に思う。私は答えた。
「乞食」
あまりの予想外の返答に、誰かが聞き返した。
「え?何ですって?」
「乞食!」私は生え変わる途中の汚い歯並びで叫ぶように答えた。
「……どうして乞食になんか、なりたいの!?」今度は聖母が叫んだ。
「働かなくてもお金が貰えるからっ!」
私はきっと、満面の笑みだったに違いない。凍り付いた様な空気もわからず、私は天気の良い庭に出て遊んだ。
花々が咲き誇り、紋白蝶が舞っていた。

帰り道「おい(俺の意味)は、あぎゃんに恥かいた事は無かばい!」と父は憤激していた。
母は困った様に笑っていた。(了)

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