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学習指導者がぶつかる、「結局どこまで原理原則を教えるべきか」論①

弊塾のバイト君としょっちゅう議論になる話がある。

なぜ学校の先生は、原理・原則を教えないのか?

という話である。

つまり、学校の先生は「これは、こういうもんだから覚えるっきゃない!」という話に終始しすぎており、それにより中高生の勉強が、単なる丸暗記ゲーと化す嫌いがあるのではないかという議論だ。

ノート初投稿の題材として、このテーマを選ぼうと思う。

理由としては、「塾ホームページには書きにくい」からだ。

弊塾のホームページは、基本的に塾生の保護者の方や、今後入塾が見込まれるお客さんに向けたものなので、このようなテーマはノイズになってしまうと考えた。

よって、アカウントを作って以降放置し続けた、こちらのnoteで書いていくことにする。

現時点で、私のこの問題に対する解答はこれだ。

問題による。

身も蓋もなくなってしまった。理由を説明しよう。

まず学力的観点。

人間には、知識記憶と経験記憶というものがあるらしい。

※ここからの話は、この本の内容を参考にしている。

知識記憶とは、今回でいうところの“暗記”に当たるもの。

文字通り“知識の記憶”だ。

これらは、小学生などの発達段階初期で、多く習得が可能なものである。

例えば、掛け算九九などは、その原理がどうこうよりも、「にしがはち」だったのではないだろうか?

これを「2が4つあるから~」などという小難しいことを考えただろうか?

きっと、音の響きや、ノリでマスターしたであろう。

この時期の子どもが、アニメやゲームのキャラクターを覚える能力には目を見張るものがある。

掛け算九九をこの時期に覚えるのは、こうした発達段階を見越してのことだ。

しかし、話が抽象化、複雑化するに伴い、知識偏重ではいられなくなる。

そこで登場するのが、“経験記憶”だ。

経験記憶とは、自身の体験や経験と紐づいた、知識の連なりによる記憶である。

例えば思い出。

思い出が忘れにくいのは、繰り返しのアウトプットによるものもあるが、それ以上に感情や五感などによる、記憶の土台が盤石であるからだ。

今回の話で言えば、原理を理解するというのは、どちらかというと経験記憶に近い。

言うまでもないことではあるが、記憶として忘れにくいのは、この記憶である。

よって、発達段階にあわせて徐々に暗記の仕方を変えていかなければならないのであるが、その移行すべきタイミングが、個人差の問題もあり、一概には言えないのだ(本曰く、第二次性徴期をむかえる中学生くらいが、まさに変化のタイミングとのこと)。

学校教育は、常に全体に向けてのものでなければならないというジレンマを抱えている。

どの学力層も一緒くたに、教育というものをパッケージングする場合、原理をすべて教えるにしても、当然当人の許容量の問題もある。

そして、原理というものは突き詰めていくと、必ず中学生範囲を超えてしまう。英語についても、原理の行き着く先は古英語など、果てしない。

ちょっと話を飛躍させすぎてしまったが、こうした背景の下、「こう覚えるっきゃない!」という、一種の妥協案に至っているのではないだろうか。

ではここで発想を転換しよう。

(続く)


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