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調律師さんがやってきた

「ピアノの音が変なの」

娘が言ったのは先週のことだ。
どう変なのか聞いてみると、
何やら音を鳴らすと、その音の他にジーーっと別の音がするらしい。

私には聞こえない。

「ほら聞こえるでしょ?」

聞こえない。

これはあれか。
子供にしか聞こえない音なのか。
心が澄んでないと・・・もしくは、耳が若くないと・・・?それとも、発表会が近いストレスのせいで、ありもしない音が娘の耳には聞こえているのか?

あれこれ考えた。

「次、調律師さんにきてもらう時に、
調律と一緒に見てもらおうか」


わが家にアップライトピアノがやってきたのは、
昨年のことだ。

実家にあったピアノ。
もう現在は販売されていない古いメーカーのものだ。

祖母が母のために買い、
母が15年弾き、
私と弟が10年弾き、
そしてついに私の娘が弾いている。

田舎の実家と違って、
私が結婚してからの家はさすがに狭いから、
娘がピアノを習いたいと言い出した時
娘には白い電子ピアノを新しく買った。
場所はコンパクトで済むし、部屋に馴染むし、
音の大小は調整できるし、当初は十分満足していた。

けれど、やはり音は、生の楽器には敵わない。
はじめて4年。難しい曲を弾くようになってから、より鍵盤のタッチや音の響きに重点を置いた指導がされるようになり、先生から買い替えを勧められた。
それならば、と実家から運んできたのだった。

想像以上に、長く弾かれ、
今年米寿の祖母もたいそう喜んでいるみたい。



生の楽器は、電子楽器と違い、
メンテナンスが大変だ。

私はピアノはやめたけれど、
その後、ヴァイオリンを弾くようになったからよくわかる。

ヴァイオリンは、定期的に弦を変える。切れてしまって交換することもあるけれど、そうでなくても錆びたりすり減ったり音が悪くなるからだ。
アマチュアであれば、半年に1回くらい。これは自分でできるメンテナンス。
他に、自分で出来ない、弓の毛替えや点検なんかもある。必要になると楽器屋さんや工房に行ってメンテナンスしてもらう。

ヴァイオリンと違って、ピアノは簡単には持ち運べないから、このメンテナンスのために、調律師さんが家まで来てくれる。


調律師さんが出てくる小説がある。

宮下奈都の『羊と鋼の森』

この本を読んでから、
なんだかよく分からない存在だった調律師さんに親近感がわいたし、調律師さんの仕事を間近で見たい!という気持ちがめちゃくちゃ高まった。

わが家にピアノがやってきてからは、半年に一度くらい来てもらう機会があって、私はお祭り前の子どもみたいにワクワクした気持ちでその日を待っている。



暑い中、コロコロコロコロ、
沢山の荷物を引きながら、その人はやってくる。

調律師を探すサイトで見つけてお願いしているフリーの方だ。片道1時間以上の道のりを電車に乗って、駅から歩いて、やってくる。

いつも約束の時間ぴったりに、
その人はインターフォンを押す。
1分の狂いもなくて、なんだか笑ってしまう。

「お邪魔します」

その人は余計な世間話は一切しない。

暑いですねとか、
電車はどれくらい混んでましたか、とか、
聞いたら、答えてはくれるんだけど。
静かにやるべきことをやるという感じ。

律義さは、
調律の仕事にも出ている。

ピアノの前にくると、
床一面に布を引き、
アタッシュケースに入っていた道具を一つ一つ取り出して並べる。
その並べ方まで、等間隔だったりする。

並べ終えると、
問題の「ジーー」という音を聞こうと、
鍵盤を一つ一つ鳴らしていく。

ポーン
ポーン
ポーン

「この音ですね?」

ポーン

良かった、調律師さんには聞こえるようだ。
私には聞こえない。
娘を呼ぶ。

「うん、そう。そこが一番ジーって聞こえる」

返事を聞いて、調律師さんは静かにうなずく。

「では、いつものように調律して、
 雑音もできるだけなくすように調整してみます」

そして、ピアノの外側の蓋を開ける。
この瞬間はいつも自分の楽器ながら
美しさに「わぁあ」と感動の声をあげてしまう。

中には、
88もの木のハンマー、88本の弦。
厳かに、整然とそこに並んでいる。
すでにこれほど美しく、整ったものを、
さらに音程を整え、タッチを調整し、雑音をなくしていく。
88本一つずつ。一つずつ。

ポーン
ポーン

ヴァイオリンの4本だけの弦を調整していた私には、88本なんて!途方もない作業に思えた。私だったら、20本目くらいで気が狂って、ブチんと弦を切っちゃってると思う。

しかも、
自分がその楽器を奏でるためにではなく、
誰かのために何時間もかけて楽器を調整するとは。
不思議な感覚だ。
調律師ってすごい仕事だと、改めて思う。

調律が終わると、
今度は蝶番部分にオイルをたらしたり、ネジを締めたり。

ポーン
ポーン

調律師さんは顔を上げ、
「いかがですか。大分良くなったと思うのですが。」
と問う。

娘がおずおずと、順番に鍵盤を弾いていく。

ポロポロポロン
ポーン
ポーン

「うん、良くなった。音がなんか澄んでるね。」

うつむき加減に言う娘の言葉を聞いて、
調律師さんは、この日初めてにっこりと笑った。

「良かったです。
 ネジが緩んでいたのが原因かもしれません。けれど、一部ネジも劣化してるものがあったので、もしかしたらまた鳴ってくるかもしれません。」

「古い楽器ですから、できる範囲で対応して頂ければ大丈夫です。」

「何かありましたら、またいつでもご連絡ください」

そして、来た時と逆の手順で、
楽器や道具をしまい、

帰り際に、
調律師さんは娘にこう言った。

「毎日、練習してるんだね。
 楽器がよく鳴ってました」

「うん、もうすぐ発表会で好きな曲弾くんだ!
 難しい曲だから、たくさん練習してるの!」

「そうなんですね。発表会頑張ってくださいね」

娘もとても嬉しそうだった。



歪みを整える仕事。元に戻す仕事。直す仕事。

そういう仕事をしてくれる人がいて、
安心して、「何かを生み出す」ができるんだよなぁ。

調律師さんがいてくれて、
娘がピアノで音楽を奏でられるみたいに。

祖母から受け継いだ大事なピアノ。
いい調律師さんと巡り会えて、
娘もピアノもほんとうに良かったなぁと思う。

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