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ほとばしらせる

いまだから浮かぶ言葉があるはず、とエディタを開いたものの、言葉はいつだって、逃したら二度と会えないものであって。だったら、僕はいままでどれだけの言葉を蔑ろにしてきたのだろう。

ここでいう言葉とは異なるけれど、5年ほど前から、「思考とことばが生きる意味」を掲げ続けている。スローガンではなく、僕の信念に近い。ことばは、その人が現れる媒介。それは、言葉・絵・作品・料理・写真などなど、さまざまな形で現れる。

僕にとってのことばは、いまのところ言葉だと感じている。言葉といっても、形式は数多存在する。友人のなかにも、「インタビューして書く」ことに誇りを持っている人や、詩の道を邁進する人がいる。彼ら彼女らの姿勢が眩しい。僕はまだことばを探しているんだなと感じる。メディアで書く記事も好きだし、ここに書くような雑多な文章も好き。なにかを書くという営みが与えてくれる、世界から隔絶した意識空間は心地がいい。

けれど、それが「僕が現れる媒介」になっているかと問われると、首を傾げてしまう。僕を僕たらしめているドロッとしたものに触れる感覚がない。単に技量が足りないだけかもしれない。いまの言葉の世界を本気で歩む覚悟を持てば、チラリと輝くものを見れるかもしれない。でも、この道に我が身を沈める盲信がないと、言葉を絞り出すことはできない。もっと軽やかな言葉の世界もあるとは思うけれど、僕が魅せられた言葉は、紡ぎたいと心底願う言葉は、果てしなく重いから。

書いていて、改めて実感した。僕は、言葉を畏れている。ペッと書きつけられる容易さを持つのに、誰かを容赦なく切り刻む。頭のなかを丸ごと映し出せるわけないのに、それが全てだと自他ともに信じ、踊らされる。白い紙に印刷された二次元の記号が、何百ページに連なることで、現実を飲み込むような世界がつくられる。そう思えば、たった31文字が身体を震わせる。この手軽さと偉大さと底知れなさ。だから、なにかを書き始めようとするといつも、途方もない広がりを感じて後退りしてしまう。無意識的に、届く範囲にある手頃な言葉を選び、体裁だけ整えた文章を並び立てる。空虚さしか、残り得ない。深淵を覗き込まずに放った、空っぽなもの。

だったらと、その畏れに向き合おうとしたのなら、途端に圧倒される。いまの僕にとって、言葉はいつも舌足らずで。書いても書いても、しっくりこない。違和感だけが積み上がっていく。探して、探して、探して、ようやく拾った言葉が指の間から零れ落ちていく。違う。これじゃない。苦しい。眩い言葉は無数にあるのに、僕が紡ぐものは沈黙している。

僕には、切実さが足りていない。だから、言葉に質量が込もっていない。世界に絶望しているくせに、すぐに溺れるくせに、ほんの少しの間だけだったら社会に馴染めてしまうから。漠然とはしているものの、たしかな「こうとしか生きられない」を抱えているのに、気が付くと薄めてしまう。そして、その薄まりが度を過ぎると、心と身体がストップをかける。そのたびに、防衛機能に感動する。布団から起き上がれなくなるのは、得てして自分を埋没させようとしているとき。生きていく不安に苛まれ、迷い続けるしんどさに耐えかねて、自分の足で歩くのをやめようとしているとき。“僕を僕たらしめているドロッとしたもの“が、「このままだと死ぬぞ!」と叫んでくれて、動けなくなるのだろう。あぁ、正常だ。

いい加減、諦めないといけない。諦めるのに格好のタイミングが、数日後に迫っている。どれだけ茨の道だとしても、「こうとしか生きられない」があるのだから、それ以外の道で生きていける可能性なんてない。だったら、生きていくことを望むのなら、諦めるしかない。切実さは、ここから育っていく。生きのびないと、生きられないだろう。けれど、生きのびるためになんて生きてられない。生傷たちが、言葉への畏れと向き合わせてくれる。僕のことばを形作っていく。

死にたくないんだろう。そうとしか生きられないんだろう。傷つけ、苦しめ、迷え。ボロボロになって、それでも足掻け。

あぁ、今日も正常だ。

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