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つらつらと② 農家さんの作業やら、夏の景色やら、五感やら

農家さんの朝は早い。ということは、農家さんのお手伝いをしている僕の朝も早い。最高気温35℃を記録するいま、9時には強い日差しがジリジリと肌を焼く。12時には肌が焦げる。本当に。となると、諸々の作業をやるには9時集合では遅すぎる。そんなこんなで、夏の作業は5時半に始まる。僕は週2日ほどの作業でしかないけれど、これを毎日やっている農家さんには尊敬の念しかない。野菜、もっと高値で出回って欲しい。

こないだは、休憩を挟みつつ11時半まで作業。手を動かしていた時間、しめて6時間。あれ、本当にまだ午前中? でもなんだか良い疲労。いちど家に帰り、シャワーを浴び、お昼ごはんを作って職場&作業場のコワーキングへ。汗を流したあと、バタバタしながら次の予定へ向かう。どこかで感じたことのある時間の流れ…と思ったら、大学時代の部活か。朝練をし、汗を拭いながら講義orバイトに向かった、あの日々。夜練もありましたが。卒部したのはもう5年も前だけれど、見知った人と一緒に身体を動かす時間は、僕にとって大切であり続けている気がする。

そう思うと、空間を共にすることの価値をやはり痛感してしまう。自分の畑で作業していたら、近所のおじいちゃんが話しかけてくれて、「うちの畑のネギ採っていきなよ」って会話が生まれたり。一緒に農家さんのお手伝いをしているおじいちゃんが「玉ねぎいっぱい余ってるけど欲しい?」と、大量に持ってきてくれたり。コワーキングの受付にいたら、会員さんから「そば茶飲む?」って誘いをもらったり。あ、全部美味しかったです。

この間は、ホタルをみんなで見に行った。ホタルなんて見たことないし、どこにいるのかも知らなかったけれど、集合場所はいつも通っている道の途中。そこから結構歩くのかな…と思ったら、徒歩10分で観察場所へ。いや、近いな!と驚きつつ、無事に見れた人生初のホタルの光。すごかった。「すごーい!」としか言えなくて、「いや、語彙力!」とツッコまれたけど。暗闇を飛ぶ光は、儚くて、幻想的で、切なくて。かなり久しぶりに、“夏の夜”を感じた。(そういえば、花火もお祭りも、なんだか夏の夜って切ないですよね。お盆があるから?)

この夜で心に響いたのは、月明かりの田んぼの畦道をみんなで歩く風景。その日に参加した7家族は、全員知っている人で。お世話になっている人もいれば、一緒に働いている人もいるし、少し話したことがあるだけの人もいる。けれど、みんなに関係性がある。この地域で、日々暮らしている。そんな人たちが集まった夜。小さい人たちは騒ぎなながら走り回り、大きい人たちは見守りながらゆっくり歩く。列の最後尾からの風景に、「あなたは、いまここで生きているんだよ」と囁いてもらった。

そもそも、「生きている」ってなんなんだろう。このあいだ読んだ本に、「個性は身体にしか宿らない」と書いてあった。だったら、他でもない“僕”が生きているという実感は、身体を介してしか抱けないんじゃないか。身体を介して世界と繋がる。それはつまり、五感を働かせるということ。ディスプレイに映る顔じゃない。イヤホンを通して聞こえる声じゃない。テクノロジーに媒介されない、ナマの刺激。それが「生きている」ってことなんじゃないか。そう思うと、変な話じゃなく「性的な刺激」は、「生きている」と思わせてくれる気がする。“心”が“生きる”って書いて、“性”になるのは深い洞察が隠れているのでは。

閑話休題。そんなことを思っていると、7月も中旬。いよいよ本格的な夏が到来し始めた。木々や稲の緑が、広すぎるとも言える空の青が、広いプールを泳ぐ雲の白が、日に日に濃くなっていく。ムッとする濃さ…という表現を小説でよく見るけれど、もっと圧倒的だ。世界が、ずしりとした質量をまとい迫ってくる。いままで僕がいた世界はなんだったのか。そう思ってしまうくらい、主張が激しい。そして、その大きな声を聞けて嬉しい自分がいる。「世界からの声を聞く」ことは、「五感が働いている証拠」だと思うから。

勉強不足だけれど、「この世に普遍的な存在なんてなくて、誰もが自分の感じるようにしか世界は現れない」という考え方がある(うまく説明できない)。個人的に、元々とても好きな考え方でもあり、佐久の日々でより好きになった。きっとだけれど、世界はずっと声をあげている。夏も冬も春も秋も。どの季節だろうが、人間がどう過ごしていようが、さまざまな声をあげている。その声の聞こえ方が、その人にとっての現実なんだと思う。なにも聞こえない人もいる。聞こうとしない人、聞こえなくなった人もいる。別にそれでいいとも思う。ただ、「なんでいまここに生きているんだろう」などを性懲りもなく考え続けるような人にとっては、世界の声に耳を傾けることが大切なんじゃないか。いや、耳を傾けるなんておこがましい。世界の声を、必死に聞かせていただく。その先で、僕の存在に理由を見出すことなんてできないだろうけど、「いまここで生きてるのか」と実感することはできるはず。そうやって、訳の分からない生を繋ぎ止めていくのかもしれない。

僕は、今日も生きている。

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