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私のボランティアジャーニー

相変わらず「こんなはずじゃなかった」が跋扈する東京を、2021年も生きている。

そんななか、いよいよゴールの見えてきた旅路について、今の気持ちを書き留めておこうと思って文字を打ち込んでみる。
2018年の秋に始まった、「ボランティアジャーニー」という名の旅路の物語。

「東京五輪のボランティア」に憧れて

「東京にオリンピックが来たら、ボランティアとして携わりたい」
そんな想いを抱きはじめたのは、いつからだったろうか。
「オリンピック」をテーマに自由研究を提出したのが、小学校6年生のこと。そのときにはもう、世界じゅうのトップアスリートたちが集まるスポーツの祭典に魅せられていた。

「TOKYO!」というアナウンスに日本が熱狂したのは、社会人2年目のとき。
エンブレムがああだ、スタジアムがこうだ、などいろんな問題があったけど、「ボランティアをしたい」という気持ちは1ミリも揺るがなかった。いちはやく募集要項を調べたし、たしか無駄に張り切ってTOEICを受け直した。最高スコアは更新できなかったけど。

2018~2019年:ただ胸が踊った時間

ついにボランティアに応募したのが、2018年秋。
説明・面接会場で、バックグラウンドは違えど「ボランティアしたい」という思いを抱いたたくさんの人たちに出会った。
グループワークで同じ班になったなかに、英語圏から来た人がいた。彼が話すことはほぼすべて聞き取れたのに、とっさに英語で思いを伝えられない自分にショックを受けた。同時に、すらすらと英語でコミュニケーションをとるメンバーに「かっこいい!」と感銘を受けた。帰宅してすぐにオンライン英会話に登録して、毎朝フィリピン人の先生と会話するのが日課になった。

「フィールドキャスト」という名前が決まり、ボランティアとして携われることが決まって。
当初割り振られたのはパラリンピックのボランティアのみだった。誤解を恐れずに言えば「オリンピックには携われないのか」という一抹のさみしさはあった。

でも2019年秋、集合研修に行ったらそんなの消し飛んでしまって。実はTokyo2020は、オリンピックとパラリンピックのボランティアユニフォームが統一デザインになった、はじめての大会だそう。次のパリ五輪からは、エンブレムも同一のものを用いるという。そうした取り組みを知ったら、「どっちのボランティアなのか」にこだわる自分が本当にちっぽけに思えた。

ちょうどこのころ突然仕事を辞めることになって、とてつもない閉塞感に押し潰されそうだったんだけど、決まったばかりのユニフォームデザインを見たら、脳内は「楽しみ楽しみ楽しみ楽しみ楽しみ楽しみ楽しみ」で溢れかえった。
夢みたいな時間だった、ここまでは。

2020年:悲しみと、切り替えと

2020年の春先から、世界は文字通り一変した。
生活様式を大きく変えなければならないばかりか、楽しみにしていたイベントはすべて中止・延期を余儀なくされた。
そして、オリンピックも例外ではなかった。

あのころの日記がこれ

https://note.com/saaskaugria/n/nc407b908e046

悲しかった、とても。
プツンと気持ちが切れてしまって、英会話を続けることができなくなった。

ただ、1年待てば状況は変わるはずと信じていた。
たぶん辞退者がいたのだろうけど、2020年秋だったか、オリンピックのほうのボランティアオファーも来て。「かかわれる日数が増える!」と、ちょっとガッツポーズしてしまった。

2021年:何度も折れて、泣いて

そしてむかえた2021年。
活動会場が決まり、活動シフトが決まっても、感染者数は止まらなかった。
「本当にやるのかな」「やっていいのかな」と、オリンピックが大好きなわたしでさえ思っていた。世論はなおさら、だった。

ユニフォームを受け取り、「それでもやるんだ」「それなら、来てくれる観客と一緒に最高の瞬間を楽しもう」と考えていた矢先、海外からの観客を迎え入れないことが決まった。
「なら、『地元のオリンピック』を満喫できるよう、国内のお客様を精いっぱいおもてなししよう」
自分に言い聞かせるように、何度も口にした。じゃないと気持ちが折れてしまいそうで。

その直後に受けた、会場別研修。
単純なもので、実際に自分が手伝う会場を目にすると、折れかけていた気持ちは一気に立ち直った。
選手が熱戦を繰り広げるであろうスタジアム、フォトスポットになるはずの五輪マーク。夢見た風景の一部に自分もなれるのだ! と、否が応でも胸が躍った。

「ここで荷物のチェックをします」「ここでチケットをチェック」「お客様が入ってくるのはここのゲート」「退場ルートはここ」「多目的トイレはここなので覚えておいて」

方向音痴極まりないわたしは、一発では覚えられなかった。場内の案内図と自分のメモを何度も見直し、当日までに万全に覚えねば! の一心だった。

無観客になると決まったのは、そこからわずか2週間のできごとだった。

2021年7月:ゴール目前で思うこと

わたしが割り振られていたのは「イベントサービス(EVS)」という、観客の案内をする役割。
現段階で、その役割がなくなることはわかっている。「皆に何らかの形で関わってほしい」と言ってくれた組織委の言葉に一縷の望みを託し、連絡を待っている状況だ。

無観客になることを薄々予想してはいたけれど、悔しいし、悲しいし、やりきれない。
誰も悪くないから、怒りのやり場がない。

けれど、子どものころから憧れ続けてきた「オリンピックのボランティア」に対する想いは、この期に及んでまだ変わらない。
Twitterで先日見かけてはっとしたけれど、応募したのも、辞退しないと決めたのも、一つ残らずわたしの意志だ。苦しいのも悔しいのも、ちゃんと自分で選んだ結果、だと思う。

それに、長かったボランティアジャーニーのなかで得たものは、すでに少なからずあるなと思っていて。

英語をまた勉強しようって思えたのは、ボランティアの機会をもらえたから。一度は挫折しちゃったけど、気持ちの整理がついたら再開したいと思っている。勉強の成果を確認したいから、いつかまた、別の国際大会のボランティアをできたらいいな。

こんな状況が続くなか、「誰のことも責めるまい」という信念を貫き通せているのも、たぶんボランティアでたくさんの人の想いに触れたからだと思う。わたしよりずっと悔しい想いをしながら、それでも「皆に何らかの機会を」と検討してくれている組織委には感謝しかない。

ちょっと話が飛ぶけれど、無観客が確定する直前に、朝日新聞からボランティアについての取材を受けた。

「関係者の案内業務は残るだろうけど、ボランティアをする意味があるのかよくわからない」
「モチベーションの保ち方が本当に難しい」と打ち明けつつ、「会場にいられる数少ない人間の一人として、せめてこの状況で開かれる五輪を見届けたい」と話した。

絶対に言わないつもりだったのにふと口からこぼれた、「ボランティアをする意味があるのかよくわからない」という言葉。

そして、話しているうちに思わず口にした、「見届けたい」という言葉。

どちらもたぶん、本音なんだと思う(記者さんはすごい)。だけど、自分がやりたくてたまらなくて、会社に交渉してまでボランティアをするのだ。意味なんか「やりたい」だけで十分だ、と数日経った今は思っている。

「オリンピック」というお祭りが大好きだ。
たくさんの観客と一緒に、人生最高の思い出を作りたかった。こないだウィンブルドン決勝を見ていたんだけど、満員の観客がプレイヤーに声援を贈っていて、なんだか別世界のように感じた。
どうしてこれが日本でできないのかなあ、と思う。考えるだけで、涙がこぼれそうになる。幾度となく「しょうがないよ」と口に出してきたけど、悔しい気持ちはどうしたっておさまらない。

だからわたしは、できる形で参加し続ける。こんな時代のオリンピックを見届けることだって、きっと自分にできる役割のひとつだと思うのだ。

9日後にせまった開会式、そして1カ月後の閉会式を、自分がどんな想いでむかえることになるのか、まったく想像ができていない。
ただ「見届けたい」と強く思う。前向きでありたい、と願う。どうかその役割だけは、最後まで果たすことができますように。

2019年秋のわたし自身が書いた言葉を見て、思わず笑みがこぼれた。
間違いなく、一生忘れられない経験の真っ最中だ。
今はまだ、あの日感じていたのとはまったく別種の、想像もつかなかった閉塞感の中にいる。でも、ここからできる範囲で吹き飛ばしていきたいね。


TOP画は、「みんなのフォトギャラリー」からsubarasikiaiさんの写真をお借りしました。すごく良い作品だ。

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