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【読書記録】ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件: 知・社会・言語ゲーム』を読む。

全体要約

リオタールは同書で、高度に発展した先進社会の特徴を、その社会における「知(仏:savoir)のあり方」に注目して概念化した。近代化を終えた社会は20世紀後半に入るにつれ、情報化、脱工業化、資本主義の拡大、経済のグローバル化など様々な変化を迎えた。そうした社会での知のあり方は「真理の探究」ではなく、経済的な利益を目的とした知識生産へと変わっていった。こうした変化の本質を哲学的に整理することによって、現在の潮流に抗うような思考のあり方を提示する。

リオタールは、近代の特徴が「大きな物語(仏: grand récit)」にあるとし、その喪失をポスト・モダンの特徴としている。この「大きな物語」とは、社会の大多数の人に自明のものとして共有されている価値観、信念体系のことであり、その具体的な内容はドイツ観念論やヒューマニズムに見られる「理性的主体としての人間が世界の真理を探究し、それをもとに社会を望ましい方向へ発展させていく」という「理性に基づく進歩の物語」である。プレ近代から近代に移る際、神話や教訓などの物語的知から手を切ったかと思いきや、近代の原動力である「理性(論証と証拠)に基づいた討議」自体を肯定するには、そうした物語形式による自明性の付与が不可欠だったのだ。しかし社会の変化に伴い、その自明性が疑われ始めた。それがポスト・モダンの始まりである。ポストモダンな社会は、近代を支えていた「大きな物語」、つまり社会全体を統べるような土台が失われた社会なのである。

大きな物語を喪失したポスト・モダンの状況においては、どの知も絶対的な根拠を持つことができず、各々がそれぞれの仕方で知的活動を行なっている。ただ現在の知的活動は、経済的な利益を目的とした知識生産が支配的であり、効率を判断基準にした研究、教育が行われている。こうした単一の基準で知が選別される暴力性(テロル)にリオタールは目を向ける。そうした視線は、理性的主体によるコンセンサスに再び重きを置くハーバマスの合意論に対しても向けられる。そこでリオタールは、分散した知的活動それ自体を肯定し、知の複数性、多様な知の並存を維持するような「パラロジー」という思考のあり方を提示する。これは言うなれば、ある一つの基準や規則に知のあり方を還元させない態度である。リオタールは分散した知的活動それぞれを「小さな物語(仏: petit récit)」と呼び、自らが立っている前提や規則に自覚的になり、その場、その時にのみ有効な決定を紡いでいくような小規模の知的活動に可能性を見出す。


全体の構造

Ⅰ. 研究対象・問い・方法: 情報化社会を適切に捉えるための「言語ゲーム」
・第一章 領野|情報化社会における知
・第二章 問題|正当化
・第三章 方法|言語ゲーム
・第四章 社会的関係|モダン時代における二者択一
・第五章 社会的関係|ポスト・モダンの展望

Ⅱ. リオタールの物語原理論
・第六章 物語的知の言語行為
・第七章 科学的知の言語行為

Ⅲ. 近代の「大きな物語(grand narrative)」とその終焉
・第八章 物語的機能と知の正当化
・第九章 知の正当化の物語
・第十章 脱正当化

Ⅳ. 「遂行性による正当化」が行き着いた先: 技術が先行する知
・第十一章 研究と遂行性によるその正当化
・第十二章 教育と遂行性によるその正当化

Ⅴ. リオタールの展望: それぞれの知の並存「パラロジー=小さな物語たち」へ
・第十三章 不安定性の探究としてのポスト・モダンの時代の科学
・第十四章 パラロジーによる正当化


各章読書メモ


・「この研究が対象とするのは、高度に発展した先進社会における知の現在の状況である。」
→リオタールが同書で検討しているのは「高度に発展した先進社会における知の現在の状況」であり、同書の成否は、それに対して適切な記述ができているかにかかっている。また、リオタールは哲学者であるため、対象に対して「概念化」、つまり戦略的に誇張を行い、ある特徴を浮き彫りにする方法をとる。(それを明言しているのが、21−22頁)よって、社会学のような仕方で、データを用いて対象に適切な記述を与えるわけではないことに留意する必要がある。

・「それ[ =ポスト・モダンの知 ]は、差異に対するわれわれの感受性をより細やかに、より鋭く、また共約不可能なものに耐えるわれわれの能力をより強くするのである。」
→ここでの「ポスト・モダンの知」とは、先取りして言えば「共約不可能性」、つまり単一の論理や正当性に還元できないような、さまざまな知が共存している状態である。そうした知のあり方は、「異なる」ものへの耐性をより強くさせるというのだ。このリオタールの楽観的見立てに対しては、現代社会の「不寛容」「不干渉」を踏まえると「われわれは差異に耐えず、それぞれが内々の論理に篭ってしまった」としか言いようがない。(こうした態度はリオタールのいう「小さな物語」ではない。「小さな物語」とは小規模な知的活動であり、自らが立っている前提に固執することなく、思考を紡ぐ態度である。内々の論理に縋るのは、単なる「内輪の物語」である。)

第一章 領野|情報化社会における知
・「われわれの作業仮説は、社会がいわゆるポスト・インダストリー時代に入り、文化がポスト・モダン時代に入ると同時に、知のステータスにも変化が生じるというものである。」
→「作業仮説」とは、実際に検証可能な仮説命題のことを指す。リオタールの仮説とは、ポスト・インダストリー時代(脱工業化社会)に入れば、つまり第二次産業よりもサービス業である第三次産業にウェイトがかかった社会になると、知のステータス(社会的地位)が変わるということである。疑問点としては「文化がポスト・モダン時代に入ると、」とも言っていることである。その「ポスト・モダン」な文化とは何なのか。それが示されないと「ポストモダンな状況と同時に、ポストモダンな知的環境になった」と同語反復になってしまう。

・「情報科学(computers)のヘゲモニーのもとで、一定の論理が、また《知》の言表として受け入れられるものについての一定の規制が、すでに課されているのである。」
→リオタールがここ数十年での変化として特に注目しているのが、情報科学の台頭である。現代は、プログラミング言語や情報通信、人工知能、自然言語処理などの科学が覇権=ヘゲモニーを握っている時代というのだ。そうした情報科学、それに伴う情報機器の普及は、これまで印刷技術、映像技術の発展に伴った知の変化と同様に、知のあり方に変化をもたらすとリオタールは見ている。疑問点としては、具体的にどのような情報科学を念頭に置いていて、それのどういった特徴に注目しているのかである。そうした点を明示的に記述してもらいたい。(言いっぱなしで終わらないでほしい。)
→最後の「《知》の言表として受け入れられるものについての一定の規制」は、この後にも出てくる「何を〈科学的知〉として認めるか」という正当化の問題に関するものとして読んでいいだろう。

・「われわれは、知識が、その《精神形成》の価値あるいは政治的(行政的、外交的、軍事的)な重要性によって普及してゆくかわりに、貨幣と同じネットワークによって流通するという事態を思い描くことができる。」
→まず《精神形成》とは、ドイツ語で”Bildung(教養)”である。これは、フンボルト型大学の理念としての教養主義だと思われる。そうした人間性に深みを持たせたりするための知識ではなく、商業的に価値を持つ知識という側面が強くなったのが、現代の知の「社会的地位」というわけだ。リオタールは、その背後にグローバル資本主義、国家を超えたIT産業を見据えている。

第二章 問題|正当化
・「これら[科学と技術の進歩というパラダイムと、経済成長・政治権力の発展というパラダイム]の明証性(truism=自明性)はまことしやかではあるが、偽りである。」
→これがリオタールの分析のクリティカルな部分なのだが、近代に特徴的な「進歩のパラダイム」は、近代人にとっては自明の事柄として受け入れられている。だがそれは自明なものではなく、数ある中のある一つの「パラダイム」でしかないのである。(そのパラダイムに自明性を与えていたのが、「大きな物語」である。)

・「〜 知と権力とが同じ問題の表裏として現れてきているからである。知が何であるかを決定するのは誰なのか。そして、どう決定するのが良いかを知っているのは誰なのか。情報化時代における知の問題は、今まで以上に政府[=統治・政治]の問題なのである。」
→「知」とは、まず科学者集団の中で形成されるものである。その際、ある命題がどのような条件を満たされていれば、「真」であると正当化されるのか。これがまず問題になる。次に、そうした条件はいったいどのようにして「正しい」とされるのか、つまりなぜその条件が妥当と言えるのか、という、一段階メタな問題が現れる。これがリオタールのいう「二重の正当化の問題」である。ただ「何が真であるかを決定する権利は、何が正しいかを決定する権利から決して独立してはいない。」つまり、これまでの純粋な真理の探究としての「知」のあり方は、たまたま西欧社会の中で、2つの権利が同じ方向を向いていただけで、基本として何が真であるかが「知」単独で成り立つことはなく、現在の情報科学が覇権を握り、知が商業化した社会では、異なる知識生産が行われるというのが、リオタールの見立てである。
→最後の一文「情報化時代における知の問題は、今まで以上に政府[=統治・政治]の問題なのである。」は、つまり純粋な真理の探究ではなく、社会的アクターの利害関係に強く影響を受けた知識生産ということを意味しているだろう。これは、科学哲学者・野家啓一が「現代科学論とサイエンス・ウォーズ」(『科学の解釈学』収録)で指摘していた、科学のあり方がアカデミズム科学から産業化科学へと移行したことと重なると言えるだろう。

第三章 方法|言語ゲーム
・「この正当化の問題を分析するための方法とは、言語事象に、そして言語事象のなかではその言語行為(pragmatique)の側面に力点を置く、ということである。」
→先の「正当化」の問題を扱う際、人間に普遍的に備わっている理性に基づいたり、演繹や検証の本質的な性質を考察するのではなく、リオタールは「言語実践」に注目する。つまり「何が科学的知で、科学的知でないか」という境界設定問題を、科学者間のコミュニケーションから見出そうというのだ。これは、科学的知それ自体に正当化しうる要素があるというよりも、常に科学者共同体の中で、ある命題が科学知として正当化されるという見立てである。これは恣意的ではなく、現在の知的探究が「純粋な真理の探究」ではなく、社会と強く結びついているからこそであり、これまでの議論を踏まえれば、妥当な選択と言えるだろう。この議論は、第四章38-39頁でも行われている。

・「われわれの方法を支えているのは、話すこととは、ゲームをするという意味において、争うこと、闘うことであり、すなわち言語行為は一般的な対抗関係に帰属しているという原理である。」
→まず、リオタールは言語行為論を主に後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に寄せて考えている。「言語ゲーム」とは、あらゆる言語行為は、ある共同体内部で共有されている暗黙の規則=ゲームに従っているからこそ意味を持つとするコミュニケーション観である。その際、つねにその規則に反した言語行為を行うこともある、それもそのゲームの基盤上で(クリプキで言えば「+」を「クワス」と使うように)。言語行為とは、そうした既存の規則と逸脱する行為の拮抗関係が常に起こっているという話である。

第四章 社会的関係|モダン時代における二者択一
・「極度の単純化を懼れずに言えば、少なくともこの半世紀のあいだ、この表象[ 社会に対する表象 ]に対しては、原則的に相反する二つのモデルが与えられてきた。一方は、社会は機能的な一つの全体を形成しているというものであり、他方は、社会は二つに分断されているとするものである。」
→リオタールの関心は、現代における「社会と知」の関係に向けられている。その際、「社会」という言葉で何を意味しているのだろうか。リオタールは、これまで社会は二つのモデルで考えられてきたと指摘する。一つめが、社会学者タルコット・パーソンズの機能主義や、社会理論学者ニコラス・ルーマンの社会システム理論に代表されるような「社会を一つの統一された有機体」とみなすモデルである。もう一つが、マルクス主義に代表されるような「弁証法」の過程として社会を見るモデルである。リオタールは、これらの見方はどちらも現代の社会にはそぐわないとし、「言語ゲーム」で社会を考えることの妥当性を第四, 五章で議論する。

・「知が位置している社会について何も知らずに、いま知がどうなっているのか、つまり今日、知の発展と普及とがどのような問題にぶつかっているのかを知ることはできないからである。しかも、今日においては、今まで以上に、社会について何かを知ろうとするときには、まずなによりもそれについて問うその仕方を選ばなければならない。というのも、それを問う仕方とは、それが答えてくれる仕方でもあるからだ。」
→前半は「知の社会的地位」を考えるには、そもそも今の社会はどうなっているのかを知るべきであるという話である。ここからもリオタールの関心が「社会と知」の関係にあることがうかがえる。また、特に興味深いのは「問う仕方」と「答える仕方」に関する記述である。「問う仕方」に関しては、まず我々が何かを問うとき、あらかじめ何かを措定して対象を問うているため、出てくる答えもその措定したものに則した答えにならざるをえないことが指摘される。つまりパーソンズの「機能主義」を用いるのか、それともマルクス的に問題提起するかで、出てくる答えも変わってくるのである。ただ何かを措定することは悪いことではなく、何かを措定することで初めて焦点を絞れるのである。そのため対象の特性や目的に応じて、措定するもの、問い方を変える必要があるのだ。

第五章 社会的関係|ポスト・モダンの展望
「〜二者択一の問題そのものが、いまわれわれの研究対象になっている社会に対してはもはや有効性を失っており、またその問題の立て方自体が、もはやポスト・モダンにおける知のもっとも生き生きした様態には適合しない、対立による思考(oppositonal thinking = 全く反対の思考)に属してしていると思われるからである。」
→先ほどの2つのモデルにおいて「知」は、「機能主義」では、社会全体の機能の一部として考えられてしまい、また「弁証法」においては、社会を批判・前進させるものとして考えられてしまう。ただそうした問題の立て方自体が、今の情報化社会の知にはそぐわないとリオタールは見ている。そこでウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」というわけだ。

・「《自己》とは取るに足らぬものだ。だが、それは孤立しているのではなく、かつてなかったほど複雑で流動的な諸関係の織物のなかに捉えられているのである。
→ポストモダンの状況はよく、プレモダンのような共同体が喪失し、またモダンに特徴的な「進歩の物語=大きな物語」が失効し、人々の間に何も共有できるものがなく、人々がバラバラになった状況と言われる。だが、リオタールはそのように人々は孤立しているわけではなく、複雑で流動的な関係の中にいると見ている。これは共同体や近代国家などの枷が外れて、これまで抑圧されていた豊かな関係の動態が剥き出しになったということでもあるだろう。これは経済活動としてみれば、国家という中間項が機能せず、直接グローバル経済へと接続してしまうことともつながるだろう。

・「単にコミュニケーションの理論ではなく、むしろ前提として対抗関係を含んでいるようなゲームの理論である。(中略)今日の知の制度を問題とするに際しては、以上のような考えを基盤として接近することが適当だとわれわれには思われる。」
→ここでの単なるコミュニケーション理論というのは、一方的な情報伝達や、双方向の内輪の会話である。そうではなく、既存の言語運用の規則と対抗するような逸脱的な言語運用を想定している「言語ゲーム」、その考え方が今の知的生産の現場に則しているというのだ。

第六章 物語的知の言語行為
・「知(仏: savoir, 英: knowledge)一般というものは、科学(science)にもそして知識(learning)にすら還元されはしない。知識とは、他のすべての言表を排除した、事物を記述し表示する言表、それが真であるか偽であるかが言明されえるような言表の集合である。(中略)知という言葉によって了解されるのは、単に表示的言表の集合だけではない。それどころかそこには、なす術、生きる術、あるいは聴く術といった様々な観念(notion)もまた混在しているのである。」
→リオタールは、第六章から同書で重要な「知」の概念について検討している。上記の文は、リオタールが「知」をより広い範囲で用いているのがわかる。知とは、科学や知識などに見られる「命題知」だけではない、つまり何か対象に適切に対応する命題の集合だけが「知」ではないとする。生きる術、つまり「価値」や「規範」なども混在した知、「物語的な知」も「知」に含むとする。これは具体的に伝統的な共同体に見られるような知のあり方が念頭に置かれている。

・「物語的知の第四の様相は念入りな検討に値するかもしれない。それは、時間との特殊な関係である。物語の形態は一定のリズムに従っており、それは、規則的な拍節を置いて拍子を刻む韻律と、そのうちの幾つかの長さあるいは強さを変化させる強拍との総合である。この知の驚くべき特性とは、言葉が語られているにしろいないにしろ、音のレヴェルにおいては韻律が強拍にまさり、それに従って、時間は記憶の基体であることをやめ、むしろ記憶にないほどの遠い昔からの脈動になるということだ。それは拍節間の顕著な差異を欠くことによって、拍節を数えることを禁じ、それを忘却へと送り出してしまう。」
→この内容については、檜垣立哉「リオタール『ポストモダンの条件』再読」が詳しい。同論文でも指摘されているが、同書は「ポストモダン論」であると同時に「物語論」でもある。特に伝統的な共同体における物語的知の「忘却」の議論は「物語原理論」として読めるのである。かいつまんで要約すると、物語的知が持つ「口頭伝承の形式」は、その知が遥か昔から成り立っていると錯覚する効果を持っているということだ。「年長者から、あるとき教えられた」という特定の記憶は忘却し、その知がこれまでもこれからも成り立っているものとして感じるのだ。

・「物語的形態に優位を与える文化は、その過去を想い起こすことを必要としないと同様に、おそらくその物語を権威づけるための特別な手続きも必要としない、ということを指摘しておこう。」
→すべての「物語的知」が先ほどの「口頭伝承」の形式を持っているわけではないが、伝承された特定の記憶を思い起こすことを必要としない性質があるといえるだろう。また同時に、なぜその知が正しいと言えるのか、という正当化を必要としていないのも「物語的知」の特徴である。一方で科学知は「正当化」にこだわり、「物語的知」を正当化できぬものとして、排除する。

第七章 科学的知の言語行為
・「この二重の規則[ ①物証重視,  ②対象と情報の一意性 ]が、十九世紀の科学が《検証》と名付け、二十世紀の科学が《反証》と呼ぶものを支えている。それが、送り手と受け手というパートナー間の討議に対して、コンセンサスの地平を与えることを可能にする。あらゆるコンセンサスが真理の指標になるわけではないにしても、しかしある言表はコンセンサスを生み出さないことはない、と想定されているわけである。」
→リオタールは、「物語的知」に続いて「科学的知」の言語行為的な分析にうつる。上記の1文目は、科学的知が科学的であるための条件が記されている。まず科学の営みというのは、物証に準拠しながら、かつその物証が同時に複数の状態を示すことがないこと(物証の一意性)を前提に議論されている。これが「コンセンサス(同意)」を作り出すことを可能にし(つまり、どっちもどっちだねで終わらない)、そうした条件を満たした科学者間の討議が「科学的知」を「科学的知」たらしめているのである。
→また最後の一文は、十分条件、必要条件の話と言えるだろう。つまりコンセンサスが取れていることは「真理(対象に適切に対応する命題が成り立っている)」であることの必要条件ではあるが、十分条件ではないという意味である。別の言い方をすれば、討議によるコンセンサスなしに(言語行為なしに)に、科学知は科学知になりえないということである。(※ただ科学者は言うだろう。たしかにコンセンサスなしに「科学的知」は生まれないが、コンセンサスを得られたものは、そうしたコンセンサスとは独立に成り立つ真なる命題となる、と。つまり、科学知になるプロセスでどのような議論をしたかどうかは最終的には関係ないということだ。これは科学者が科学史を学ばなくても科学を営めることにも通じる。)

・科学知の特徴
1. 科学的知は、あるひとつの言語ゲームつまり表示のゲームの隔離、そして他のゲームの排除を要請する。
 →科学的知をいとなむ際には、先ほどの特殊な条件・ルールによるコミュニケーション・討議を行う必要がある。それは単一のルールのもとで行う必要があり、また「対象に対して適切に対応する命題はどれか」という「表示(事実確認)のゲーム」を行う。それゆえ、他の言語ゲームから浮くし、他のルールで行われるゲームを徹底的に排除する傾向を持つ。これが科学者に特有のコミュニケーション、厳密なコミュニケーションである。

2. したがってこの知は、社会関係を形成している多くの言語ゲームの組み合わせから孤立し、切り離された単独の言語ゲームである。
 →社会における日常的なコミュニケーションは、常に多くの言語ゲームが組み合わさっている。サッカーをやりながらバスケをしたり、野球をしているようなカオスな状況である。「サッカーやっていると思ってのに、いきなり手でドリブルしやがった」というのを臨機応変に対応するのが日常である。しかし、禁欲的な科学者間のコミュニケーションは「手でボールは使ってはいけない、そういうルールでしたよね」と言うわけだ。科学者間のコミュニケーションは、日常の雑多なコミュニケーションからは切り離されて、空間的にもラボで、単一のルールを互いに強いて行なっている。そして、そのルールはラボ(専門)ごとに違う。これが専門の蛸壺化の原因とも言える。

3. 研究のゲームにおいては、獲得された能力はただ発話者のポストにのみ関わっている。つまり、受け手としての特別な能力というものはない。
 →科学者間のコミュニケーションにおいて、その科学者の社会的地位は本質的なことではなく、それで優遇されることは心理的にはあり得ても、原理的にはありえない。その知的ゲームに参加できる前提知識さえあれば(専門教育を受けていれば)誰でも参加できるのである。

4. 科学的言表は、それが言い伝えられたものだということからは、いかなる有効性も引き出さない。
 →物語的知と異なるのは、科学的知が科学的知でありえるのは、それがその前の科学者から「言い伝えられている」からと言うわけでない。現実には教科書を通じて「言い伝えられる」わけだが、「言い伝えられている」ことは本質ではない。本質は、そうした命題が「論証」と「証拠」によって検証でき、それが常に反証可能性に開かれているからである。運動方程式が科学的知としてコンセンサスが取れているのは、ニュートンが偉大だったからではなく、今でもある条件下で検証可能だからである。

5. それ故に、科学のゲームは通時的な時間性、言い換えれば記憶と計画(memory and project)とを内包している。(中略)このゲームの通時態は記憶による保存と新しいものの探究を前提とし、原則として累積的なプロセスを描いている。
 →「通時的」「通事態」とは、ここではきっと「時間的なプロセスがある」ぐらいの意味であろう。科学者特有のゲームとは、これまでの議論の積み重なり=「記憶」と、その積み重なりを反駁、更新する探究という「計画」で進んでいく。これは永遠に同じ議論が反復するというよりも、常に変奏が起きるものと言えるだろう。その点で、物語的知と異なり「忘却」が起きない。

・「われわれはすでに、物語的知はその正当化という問題に価値を認めないということ、すなわち、それは、論証にも証拠の提出にも訴えることなく、伝達という言語行為によって自らを信任する、ということを指摘した。(中略)ただ科学的なものは、物語的言表の有効性を問い、そしてそれが論証にも証拠にも決して従わないということを確認する。すなわち、西欧がはじまって以来の、その文化帝国主義の全歴史がそれである。」
→物語的な知は、科学的知のように「論証」と「証拠」によって絶えず正当化の吟味にさらされるわけではない。物語的知に特有な「伝承」という形式によって、その知は自らを肯定するのである。ただ科学的知を信奉する、科学者間のコミュニケーションにおいては、そうした物語的知は「論証」と「証拠」に耐えるものではないので、即刻棄却される。そうして物語的な知に依拠している他文化を劣位に置いていったのが、西洋の文化帝国主義の歴史なのである。※この説明は、すごくデカルト的である。『方法序説』はまさにこのことを言っている。

第八章 物語的機能と知の正当化
・「科学的知は、あからさまにしろそうでないにしろ、物語的知に属する手続きに頼ることを回避し得なかったのである[= 回避することができなかった]。」
→今では、論理実証主義によって知の正当化の問題が扱われているが、それに至るまでは、科学的な知の正当化は、物語的知によって行われていたのである。

・「重要なのは、科学を創始するプラトンの言説そのものは科学的ではないということ、そしてそうなるのは、プラトンがまさに科学を正当化しようとしているからこそであるということだ。科学的知は、もうひとつの知、つまり科学的知にとっては非知にほかならない物語的知に依拠しない限りは、みずからが真なる知であることを知ることも知らせることもできない。物語を欠けば、科学的知はみずからを前提とせざるを得なくなり、それはそれが非難するもの、つまり論点先取りの虚偽、偏見の中に陥ることになってしまう。しかし、たとえ逆に、物語によって自らを権威づけたとしても、それは同じ偏見のうちに陥っていることにならないだろうか。」
→リオタールは「科学的なものの物語的なものへの回帰」は、プラトンに遡れるとする。(ギリシャ哲学は、理性に基づいた議論に重点を置いており、ギリシャ-アラビア-ローマという経路をもって現代の思考に引き継がれている。)科学的な知を正当化しようとするときに、それ自体を単に「真なる命題だ」と言ってしまっては、他の憶見と変わりないのである。それが「論証と証拠に基づきながら、コンセンサスを得たものである」というのを付随していなければ科学的な知とはいえない。そしてそれは「論証と証拠に基づきながら、コンセンサスを目指す」という物語=「討議の物語」を共有していてはじめて可能になるのである。ただ「論証と証拠に基づきながら、コンセンサスを目指す」ことが普遍的な価値を持つこと自体は、別に「論証と証拠に基づきながら、コンセンサスを得たもの」ではないため、プラトン、もしくはデカルトの『方法序説』のような教養小説の形で天下り的に与えられるものなのである。またリオタールの最後の指摘は辛辣である笑。

・「このように社会・政治的な正当性を問う仕方は、新しい科学の態度と結びついている。すなわち、主人公の名は民衆であり、その正当性の表徴はコンセンサスであり、その規範化の様態は議決である。そこからは《進歩》という理念が生まれてこざるを得ない。つまり民衆は、何が正であり何が不正であるかについて、ちょうど学者の共同体が何が真であり何が偽であるかをめぐって行うのと同様に、みずからと討議するのである。」
→近代以降、表示的言表の「真/偽」だけでなく、価値や規範も含む社会・政治的な言表に対しても、天下りの言表を信じるのではなく「討議し、コンセンサスを目指す」物語が適応される。その物語の主人公は「君主」ではなく「民衆」であり、彼らによって「コンセンサス」を得られたものが正しいとなる。これは、プレ近代における共同体の論理とは大きく異なる。

第九章 知の正当化の物語
・「ここでは、正当化の物語の二大ヴァージョンを検討することにしよう。ひとつはより政治的であり、もうひとつはより哲学的であるが、両者ともモダンの歴史、とりわけ知とその制度の歴史においては、極めて重要な役割を果たしたのである。」
→先ほど紹介した正当化の物語、つまり「討議し、コンセンサスを目指す」物語の中でも近代を象徴するような二大物語が存在する。その一つは近代国家の思想(君主制とは反対の)であり、もう一つはドイツ観念論、ヘーゲルに代表されるような「思弁的精神」である。類似点はあるものの、リオタールは前者を「政治的」「解放の物語」、後者を「哲学的」「思弁的物語」であると分ける。これらの違いは、前者の主人公は「民衆」であるのに対して、後者の主人公は純粋に「思弁的精神」であることだ。その際、知の位置付けは、後者では知それ自体が主人公であるのだが、前者では表示的な知を「従属化」させるのが特徴である。

・「大学が果たすべき偉大な機能とは、「知識の総体を提示し、知全体の原理と根拠とを同時に明らかにすることである。」(中略)高等専門学校は機能的であるが、大学は思弁的すなわち哲学的である。そして哲学は、実験室や初・中等教育において個別科学のうちに分散さている知識の統一性を復原しなければならない。哲学がそれをなしえるのは、多様な知識をそれぞれ、精神の生成の一モーメントとして互いに結び合わせるような言語ゲーム、すなわちある種の理性の物語あるいはメタ物語のうちにおいてでしかない。」
→これは先ほどで言えば後者の、哲学的な物語に関するものである。なぜ大学という言葉が出てくるかというと、ドイツ観念論の理念はフンボルトによって汎用的な大学のあり方と繋げられていたからである(フンボルト型大学)。その際大学は、分散されている知識を、一つの体系としてまとめ上げる、そうした統一化の運動の場として考えられる。このとき表示的言表(「〜である」)と規則的言表(「〜であるべし」)の両方とも、同じ一つの体系のなかで一体化される。ヘーゲルの弁証法の通り、「討議し、新たなるコンセンサスを目指す」思考の運動がここに見出せることだろう。

・「第一のヴァージョン[ =解放の物語 ]においては、知はその有効性を、みずからのうちに、すなわちその認識の可能性を現実化しつつみずからを展開していくような主体のうちに見出すのではなく、人類[= humanity]という実践的主体のうちに見出す。(中略)ここでは、実践的主体が発する規制的言表に特権が与えられており、その特権が、原理的に、そうした言表を科学の言表から独立したものとするのである。科学の言表はここでは、今まで述べてきたような主体のための情報という機能しか、もはや果たすことはできないのだ。」
→これは先ほどで言えば前者の「政治的な物語」に関するものである。リオタールの言葉でまとめれば「知という手段によって人類がその尊厳と自由とを高めるというような人文主義的原理」と言えるだろう。この時キーワードになるのが「自由」である。つまり何か君主によって法や規則が決まるのではなく、民衆ら自らが実践的主体となり、君主から自由になり、民衆たちの討議によってコンセンサスを得たものを「法」=規則的言表とするような態度である。これは、近代国家の思想と言っていいだろう。その際、リオタールが注目するのが、「思弁的物語」との知の扱い方に対する違いである。思弁的な思考運動においては表示的言表と、規則的言表は同じ一つの体系のなかで一体化するわけだが、民衆の解放、自由の物語では、両者は別々の言語ゲームに属し、また規則的言表に重点が置かれ、表示的言表はそれに従属化される。

第十章 脱正当化
・「十九世紀の大きな物語のうちにすでに内在していた《脱正当化》そしてニヒリズムの芽を把握しておかなければならない。」
→第九章で書かれた2つの物語、思弁的な物語と解放の物語は共通して「討議して、新たなコンセンサスを目指す」前提を持っていた。この前提があるからこそ、論証と証拠に基づいた科学的知が正当性を持ちえ、君主ではなく民衆が主権を持てるようになったのだった。ただこの大きな物語の権威がなんらかの要因で衰退したのが現代社会であるとする(リオタールは技術革新、資本主義等の例にあげるがその因果関係を証明するのは難しいとする)。ただそうした大きな物語にも、すでにそうした正当性を揺るがすような契機「ニヒリズムの芽」があったことを指摘する。まず思弁的な物語で言えば、単純に科学知を科学知たらしめている大きな物語自体が科学知ではないという、自分の地盤を掘り崩して自滅する契機が常にあること。次に解放の物語で言えば、表示的言表と規制的言表は区別され、かつ規制的言表に重点をおくため、表示的言表に関する言語ゲームは他の正当化されていない言語ゲームと同列の扱いになる。(いわゆる「あーあれは科学者同士がやっている特有の討議だよ」と単なるone of them になる)

・「言語のゲームのこうした分散において、社会的主体自身も分解されるであろう。社会的関係は言語によって成立している。だが、それは唯一の繊維によって織り成されているのではない。それは、異なる規則に従う少なくとも二種類以上の、そして現実には数の定まっていない言語ゲームが互いに交錯し合う織物なのである。」
→何はともあれ、大きな物語が持っていた統合性が何かしらの要因で失われ、各地で行われている言語ゲームをある全体として統合する運動が起きず、言語ゲームはそれぞれのゲームとして分散していく。ただあるコミュニケーションは単一の言語ゲームで行われているわけではなく、複数の言語ゲームが重なりあった複雑なコミュニケーションである。これがポスト・モダン的な状況と言っていいだろう。

・「このような激しい細片化を前にして、そこから悲観的な印象を引き出すこともできよう。誰一人としてこれら全ての言語を語るものはなく、これらの言語は普遍的なメタ言語を持たず、体系=主体の計画は挫折に終わり、解放の計画は科学とはいかなる関係もなく、人はそれぞれ個別的認識の実証主義のうちに沈み込み、学者は科学者となり、研究作業はもはや誰も統轄することができないほど細分化された作用となってしまっている。(中略)こうした喪の仕事から、ウィーン学派が展開したような実証主義の方に脱け出すのではなく、言語ゲームについての探究を通じて、遂行性とは別の種類の正当化の展望を描いたのが、ウィトゲンシュタインの力である。」
→ポストモダン的状況に対する悲観的な見方は、まさにここに書いていることである。以前、指導教員が「最近の人文社会科学系の研究者は、ラフでもいいから大きな図式を提示してみようとは試みない。範囲を限定した堅実な研究成果に集中している」と言っていたことがつながるだろう。つまり、「人はそれぞれ個別的認識の実証主義のうちに沈み込み、学者は科学者となり、研究作業はもはや誰も統轄することができないほど細分化された作用となってしまっている。」状況である。こうした喪の仕事、つまり大きな物語が終焉した後に悲観的になっている後に、ウィーン学派の「科学的世界把握」のように素朴な科学主義を唱えるのではなく、言語ゲームという仕方で、新たな道を切り拓いたウィトゲンシュタインに、リオタールは目を向けるとする。ここに「パラロジー」の芽を見出したいのであろう。

第十一章 研究と遂行性によるその正当化
・「今日では、研究の言語行為は、その本質的な規則化の場面で、議論の豊饒化と証拠の提出の仕方の複雑化という二つの重大な変化を蒙っている。」
→第十一章では、話が再び科学的知の生産現場におけるコミュニケーション(言語行為)に目が向けられる。そのコミュニケーションには、大きく2つの要素「研究」と「教育」がある。「研究」とは科学者特有の「論証と証拠に基づきながら、新たなコンセンサスを目指す」コミュニケーションであり、「教育」とはこれまでの知をインストールし「研究」のコミュニケーションを可能にするための下準備の話である。大学1~3年生で「専門教育」を受けて、大学4年生以降でラボに配属し、教授や院生らと混じって「研究」するという感じである。この第十一章は前者の「研究」に焦点を当てている。
→「研究」とは「論証と証拠に基づきながら、新たなコンセンサスを目指す」コミュニケーションであるのだが、大きな物語が失墜した今日において、そうしたコミュニケーションは普遍的な条件を持った自明なものではなく、ある特殊な条件をもった単なるコミュニケーションに成り下がる。

・「普遍的メタ言語という原則は、表示的言表について論じることを可能にする形式的で公理的な体系の複数性によって取って代わられ、それらの体系は普遍的ではあるが一貫性を欠いたメタ言語において記述されることになる。」
→この1文は科学者間の特殊なコミュニケーションにおける「論証」に関する話である。「論証」とは、「妥当な推論とは何か」を考察する論理学で扱われている。具体的には三段論法などである。ただ普遍的である「妥当な推論」とは存在するのか、ある言表が従わなくてはいけない論理=メタ言語は一つに定まるのか、という問いが生まれる。リオタールは、ゲーデルの不完全性定理を持ち出して、それらは存在しないとし、分野ごとに異なるメタ言語を用いており、各々、それらに従った論証でコミュニケーションを行なっているとする。「普遍的メタ言語」は、大きな物語の代替物となり得そうだった。(信念として自明なのではなく、論理的に自明な地盤が目指されていた)だがそれは不可能だったのだ。細分化された知の状態は、相変わらず普遍的な共通地盤を持つことはなかったのだ。(つまり、細分化された知をひとつひとつ具体的に渡りあるくしかないのでしょうね。)(最近、圏論という数学が各分野を横断する可能性を秘めているとか、なんとか… 丸山善宏『万物の理論としての圏論』)
」)

・「知における2種類の《進歩》を区別しなければならないというわけだ。つまり、一方の《進歩》は既存の規則の枠内における新しい《手》に対応しており、他方は新しい規則の発明、すなわちゲームそのものの変更に対応しているのである。」
→今日における科学者間のコミュニケーションが「大きな物語」に依拠しているのではなく「遂行性」に依拠している中で、知の進歩とは何かである。上記の文をクーンのパラダイム論でいうと、1つ目の進歩が、あるパラダイム内のパズル解きである。2つ目の進歩が、パラダイムシフトである。1つ目の進歩が既存の規則を自明視しているのに対して、2つ目の進歩はそれを自明視せずに新たなものを提示するのである。

・「その言語ゲームの目標は真理ではなく、遂行性すなわちインプット/アウトプットの最良の関係である。この新しい目標を正当化するために、国家そしてまた企業は観念論的あるいは人間主義的な正当化の物語を打ち捨ててしまうのである。」
「遂行性の改良と収益の実現という絶対的な命令を技術にまず課すのは、知の欲望以上に富裕化の欲望である。技術と利潤との有機的な連関は、技術と科学の結合に先立っている。(中略)そこでは遂行性と商業化という絶対的な要請が、研究を優先的に《応用》へと方向づける。
→これらの文章は、科学者間の特殊なコミュニケーションにおける「証拠の提示」に関する話である。「証拠の提示」とは遂行的であり、科学者は証拠を提示して、自分が提示した言表が正しいことを主張するわけである。リオタールはその「証拠」がどのように生まれるのか、に注目する。まず人間の五感によるものではなく、実験機器を通じた再現性のあるものになる。次に実験機器などにはお金、予算が必要となる。つまりお金が投じられない分野には、新たな証拠が生まれなくなると言える。それが資本主義、産業科学、知の商業化と結びつくと、研究の目標が真理ではなく、いかに効率よく知が生産されるか、どうしたらたくさん稼げるのかの方へ向うのであった。そうして研究がより実社会に応用できるような方向に向いていったのでのである。(工学は稼げるが、基礎研究は予算が少ない。)
→ただ、ここでの「効率」が何に関する効率なのか、イマイチ掴めなかった。

第十二章 教育と遂行性によるその正当化
・「知のもう一方の側面、すなわちその伝達、つまり教育に関しては、それが遂行性という判断基準の優位によってどのように影響されるのか、ということを記述するのは困難ではないように思われる。」
→第十二章は、科学的知のもう一つの側面である「教育」に焦点が当てられている。そうした教育は大きな物語が失墜した今日において、どのようなあり方をするのだろうか。ただこの章は正味よく分からなかった。既存の知を教育することは、その知があることで成り立っている社会を持続させるためであることは理解できたが、それ以降はあまり理解ができていない。

第十三章 不安定性の探究としてのポスト・モダン時代の科学
・「ここでは特に、科学的知の現在の状態について、ひとつのパロディーとして、それが《危機からの脱出口》を探しているところだということもできるだろう。その危機とは決定論の危機である。決定論は遂行性による正当化が依拠している仮説である。」
→ここのでの「科学的知の現在の状況」というのは、科学者間のコミュニケーションにおける条件ということではなく(それはもう第十一章で議論された)、量子論などの、具体的な科学知のことを指している。これらの科学は、ニュートンに代表されるような古典物理学にある、ある種の決定論を否定する。つまり、ある時刻における粒子らの位置と速度が決定すれば、その時刻以降の粒子の振る舞いは一意的に決定するというものである(ラプラスの悪魔)。ただ量子論において、粒子の位置と速度は同時に観測することは不可能であることが判明したため、決定論が成り立たないことがわかった。
→ただ「遂行性による正当化」、つまり前章で議論されていた正当化の仕方は、決定論に依拠していたのである。決定論は、ある対象にこの設定を与えたら必ず以下のようなるという「予測」を保証する。つまり技術によって効率の良い知的生産を行う「遂行性による正当化」は、決定論を暗に前提にしていたのである。

・「以上のような研究(また他の多くの研究)から引き出される考えは、知識と予測のパラダイムとしての連続微分関数の優位[ = 決定論の優位 ]が消えつつあるということである。決定不能なもの、制御の正確さの限界、量子、不完全情報の争い、《フラクタル》、カタストロフィー、言語行為のパラドックス、といったものに興味を示しつつ、ポスト・モダン時代の科学はみずからの発展を、不連続な、カタストロフィー的な、修正不能な、逆説的なものとして理論化する。ポスト・モダン時代の科学は知という言葉の意味を変えてしまい、しかもこの変化がどのようにして起こるのかをいうのである。それは既知なるものではなく、未知なるものを生み出す。そしてそれは、最良の遂行のモデルでは全くない正当化のモデル、パラロジーとして理解される差異のモデルを示唆しているのである。」
→この章では、いくつかの最新の科学研究の成果が紹介されている。そこでは、決定論の立場に立ってはおらず、量子論の立場から、また三体以上の複雑系を扱うような科学研究が多く見られる。こうした知は、商業として価値を持つ確実な知をあたえるというようよりも、「未知なるものを生み出す」。こうした最新科学の知のあり方は、リオタールが最終章で提示する「パラロジー」のあり方と繋がるのである。

第十四章 パラロジーによる正当化
・「さて、以上によって、今日における知の正当化の問題に関するデータが、われわれの論題にとっては十分に、引き出されたとしよう。もはや大きな物語(英: grand narrative, 仏: grand récit)へ訴えかけることは排除される。(中略)だが、前章で見たように、《小さな物語(英: little narrative, 仏: petit récit)》は、すぐれて想像的発明、しかもとりわけ科学における想像的発明が取れる形態であり続けている。」
→第十四章が最終章であり、全体のまとめになっている。リオタールは、同書の一つの主張である「大きな物語の終焉」の後、希望として注目するのは「小さな物語(たち)」である。そもそも「大きな物語(grand narrative)」の”grand"は「規模の大きい」という意味である。つまりある集団の大多数が信じている物語=信念のことを意味している。その物語自体が、何か壮大な世界観を持っているということでは決してない。一方の「小さな物語(英: little narrative, 仏: petit récit)」の"little", "petit"は「規模の小さい」ことも意味するため対比構造に整合性がつく。ここでは大人数の集団のなかにいる少人数集団(科学者集団)の中で信じられていること、前提にされている知識や規則のことを「小さな物語」と呼んでいる。まとめると、現在の社会は、ある同一の物語を共有できるいるわけではなく、複数の小さな物語たちが重なり合っている状況であるということだ。
→また「小さな物語」では、自ら前提にしている知識や規則を自明視せずに、暫定的だと考えていることも重要である。この複数の小さな物語たちを維持するためにはどういったマインドセットが必要なのか、これがリオタールが「パラロジーによる正当化」と呼んで試みていることなのである。

・「こうした行動[ 奇抜な科学者の排除 ]は、ルーマンによって記述されたシステムの行動と同様に、テロル的な行動である。テロルとは、ある言語ゲームのプレーヤーの、そのゲームからの抹消あるいは抹消の脅迫によって得られる効率のことである。反駁されるが故にではなく、プレイすることを奪う(この剥奪には多くの種類がある)と脅かされるがゆえに、プレイヤーは黙るか、あるいは同意を与えなければならない。決定者の傲慢とは、このようなテロルを実行することなのである。」
→リオタールが一貫して懸念しているのは、この「テロル(独: Terror→恐怖、恐怖政治)」である。これは上記に書かれている通り「ある言語ゲームのプレーヤーの、そのゲームからの抹消あるいは抹消の脅迫によって得られる効率のことである。」、つまり、言語ゲームの規則に従っていない主張を「あなたの言っていることは正当性がありません」と指摘し、その者に言論の機会を与えないことである。ただ唯一の「正当化の規則」があるわけではないため、本来であれば「それはどのような規則を用いることで正当であると言えるのか」と聞く必要があるだろう。ただそれは非常に効率が悪い。よって「テロル」によって、そのものを排除することによって、知の生産効率をあげるのである。
→リオタールが同書で批判しているのは、主にハーバーマスの合意論であるのだが、もうひとつ、ルーマンの社会システム論に対しても批判的である。ルーマンの社会システム論は、社会全体を一つの大きなシステムであると見て、そこでのあらゆる行為、実践はあるシステムの複雑さを減少させる「機能」として考えらる。ただリオタールは、あらゆる行為をそうした「機能」に還元させられることに抗っている。なぜなら「機能」として働かない行為を排除する方向に向かうからだ。

・「現在の科学の言語行為における差異化あるいは想像力もしくはパラロジーの活動は、こうしたメタ規則(前提)を明るみに出し、そのパートナーたちに他のメタ規制を受け入れるように要求することを役割としている。このような要求が最終的には承諾され得るとすれば、その唯一の正当化は、「それは理念を、言い換えれば新しい言表を生み出すだろう」というものである。」
→リオタールの「パラロジー」のアイデアは、決定論に立脚しないようなポスト・モダン科学の知のあり方から来ている。「不安定性」「非決定性」には、これまでのような立論の仕方では刃が立たない。自分たちが立脚している前提を自覚し、それを明るみに出し、別の前提を他のメンバーに提示し、新たな考え方をつくること、こうした言語行為が現在の科学的知の生産現場で行われているのである。

・「社会的な言語行為には、諸科学の言語行為のような《単純さ》はない。それは互いに形式が異なる様々な言表(表示的、規制的、遂行的、技術的、評価的言表など)のクラスの網の目状の錯綜によって形づくられた怪物である。それらすべての言語ゲームに共通するメタ規制を決定しうる、そして科学の共同体のある時期を支配する修正可能なコンセンサスが、社会集団のなかを流通する言表の総体を制御するメタ規制の総体をも包み込みえる、と考えるいかなる理由もない。それどころか、伝統的な物語にしろ《近代的》物語(人間の解放、《理念》の生成・発展)にしろ、正当化の物語の今日における衰退は、そのような信憑の衰退にこそ結びついているのである。そしてまた今日、《システム》のイデオロギーがその全体化の野望によって満たそうとし、また同時に、その遂行性という判断基準のシステムによって表現しようとしているのも、まさにそのような信憑の喪失に他ならない。」
→ただ社会的な言語行為は、科学的な言語行為と異なり、表示的言表に関する単一のゲームをやっているわけではない。複数の言語ゲームが混在しているのである。またこれまで見てきたように、そうしたすべての言語ゲームを統べるメタ言語は存在しないし、これまで共有されていた「大きな物語」は今や失われている。残ったのは、冷笑的に、いや全ての行為は「システム」における機能で説明できるという立場=イデオロギーである。

・「言語ゲームの異型性を認めることはこの方向[ 正義の理念と実践 ]への第一歩である。それが含意しているのは、言うまででもなく、言語ゲームの同型性を仮定し、その現実を試みるテロルを放棄することである。第二の歩みは、もしそれぞれのゲーム、またそこで打たれる《手》を定義する規則についてコンセンサスが成り立つとしても、そのコンセンサスはローカルでなくてはならない、言い換えれば、その場のパートナー同士によって得られるもの、万が一の場合には解除可能なものでなければならないという原則である。そのときわれわれは、有限なメタ論理の多様性、すなわちメタ規制に対してなされる、時間=空間において限定づけられた論証の多様性の方に向かうのである。」
→ここでの「正義」が何を指すかわからないが、何かしら社会を良くしていく方向に向かうには、リオタールで言えば「テロル」を発動させないようにするには、まず「言語ゲームの異型性」を認めること、つまり「自分が行なっている言語ゲームとは異なる言語ゲームが存在する」ことを意識することである。次に、討議を統べる規則に何かしらコンセンサスが成り立ったとしても、それは何か普遍的なもの(ユニバーサルなもの)ではなく、つねにローカルなもの(その場、その時に成り立っているもの)でしかないことである。これらを意識した時に、我々は「論証の多様性」の方に、テロルを発動させない向きに一歩踏み出せるのである。

・「こうした方向づけは社会的な相互作用の進歩にも呼応するものであり、実際上、政治的諸関係と同様に、職業的、情意的、性的、文化的、家族的、国際的な諸関係において、暫定的契約(the temporary contract)が永続的制度に取って変わりつつある。(中略)むしろ、暫定的契約への傾向が両儀的であることを喜ばなければならない。この傾向は、システムの唯一目的に属しているのではなく、システムがこの傾向を容認し得ているのである。そしてそれは、その只中で、もうひとつの目的、すなわち言語ゲームをそれそのものとして認識し、そしてその規則とその効果ーーその効果の主要なものは、規則の採用を価値づけること、すなわちパラロジーの探求であるーーとに対する責任を引き受ける決定をするという目的を指し示している。」
→こうしたパラロジーの方向づけは、近年の傾向、永続的な制度ではなく、暫定的な契約に取って代わられていること(これは終身雇用ではなくプロジェクトごとの採用などが増えていることが例?)と共鳴している。こうした暫定的契約は、柔軟性などの観点から、社会システムによって優遇される傾向である。しかし、必ずしもシステム全体に迎合することにはならない。暫定性には、こうした両儀性がみられる。つまり「この傾向は、システムの唯一目的に属しているのではなく、システムがこの傾向を容認し得ているのである。」そして、こうした暫定的契約には、リオタールのいう「パラロジー」的実践と相性がいいのである。現在、共有している言語ゲームの「メタ規則」を意識し、それがどういった効果を持つのかを評価し、その「メタ規則」を暫定的に採用し、その決定に責任を持つ(応答可能性をもつこと)ことである。「論証の多様性」という言葉で終わらさず、リオタールは具体的な実践の可能性を提示していたのである。

コメント

・論の射程が広すぎて、ところどころ焦点がボヤけており、全体として不明瞭な論述になっている。見立てとしては現在もなお有効ではあると感じるが、言いっぱなしで終わっている部分が多く、先見性にとどまるように思える。

・物語的知の形式には「自明性の付与」という特徴がある。しかし科学的知の形式では、あらゆる言明は常に議論の最中である。つまり安定しないのである。近代において唯一安定していた信念が、あらゆる言明と行為の前提となる「理性に基づく進歩の物語」であり、これは物語的形式によって「自明性」が与えられていたのである。ただそうした近代の物語も終焉し、議論の前提もすべて「議論の最中」に放り込まれたのである。またリオタールの「小さな物語」とは、物語と名がついているが、物語ではなく、つまり何かしらの自明性が与えられているのではなく、常に「議論の最中」でしかない状況で、議論の前提に自覚的になりながら、暫定的な決定を紡ぐことなのである。リオタールの物語原論で言えば「韻律」ではなく「強拍」が優位になった社会が、ポストモダンなのである。

・同書では、ポスト構造主義哲学(例えば同世代のデリダ、フーコー、ドゥルーズなど)に言及することはない。このポスト構造主義は、論者ごとに差異はあるが、雑にまとめればヒューマニズム的思考を批判したものと言える。つまり「理性に基づく進歩の物語」を批判しているのだ。ただリオタールは、こうした思考が「大きな物語」の終焉をもたらしたのではなく、もっと大きな社会的変化(情報化、資本主義の拡大)などが原因であると見ているようである。これは私の整理ではあるが、リオタールは思想の内的な変化(つまり、ポスト構造主義の勃興)ではなく、思想の外的な変化(社会における知のあり方の変化)の方に注目しているように思える。またポスト構造主義の論者は、ヒューマニズム的思考との緊張関係として自らの思考を位置づけいており、方向性として「大きな物語」の解体と似通っているが、関係はそう簡単ではない。ポスト構造主義を近代解体の根源と見るのは、お門違いのように思える。

・ドイツ観念論・人間主義(ヒューマニズム)→ハーバーマス(合意論)、社会システム理論(システムのなかの一機能)、論理実証主義(普遍的な論理)

・テロルを避けるために

・「大きな物語」→「遂行性による正当化」という変化の流れ、この流れへの対抗言説として「パラロジー」!

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