見出し画像

【読書記録】 ジョアン・コプチェク『わたしの欲望を読みなさい: ラカン理論によるフーコー批判』 、第7章「密室/わびしい部屋」を読む②

本noteは、ラカン派精神分析理論を用いる批評家ジョアン・コプチェクの著作『あなたの欲望を読みなさい: ラカン理論によるフーコー批判』(1994)の第7章「密室/わびしい部屋 フィルム・ノワールにおける私的空間」に関する読書記録である。

同書は文芸・映画批評に関する著作であり、章の前半では古典的な探偵小説における「探偵の機能」を、ラカンの理論を用いて論じている。また後半では、第二次世界大戦後、アメリカで流行った犯罪映画「フィルム・ノワール」と古典的探偵小説の違いを述べている。

前回の読書記録①では、前半の探偵小説論について扱った。今回は①に続き、後半の「フィルム・ノワール」論に進む。改めて、前半の探偵小説論をまとめると以下のようになる。

「探偵の営みとは、凡人たちが「密室」として閉じさせている事件現場に対して、そこにある無数の物証を独創的に解釈し、「事件の不可能性」として立ち現れていた密室に、新しく「事件を可能にする」説明を与えることである。」

その際肝になるのは、物語序盤において、事件現場が謎めいていることだ。公の面では事件現場は密室であり、事件が起こるのは不可能であると考えられる。ただ現実には事件が起きている。こうした矛盾が探偵小説では発生しているのだ。そして、この矛盾に立ち向かうのが探偵であり、そうした矛盾があるからこそ、物証に対する探偵の読みが独創的になるのである。

前提知識: フィルム・ノワールの代表作『深夜の告白』(1944)

後半で主に取り上げられるのは、フィルム・ノワールの代表作と言われている『深夜の告白』(1944)である。同作は、小説家ジェームズ・M・ケインの『殺人保険』(1936)が原作であり、不倫の末、生命保険金殺人を行うという話である。

主人公は、保険会社のセールスマンであるウォールター・ネフで、保険の更新で訪れた家の夫人(フィリス)と不倫関係になる。フィリスは、夫との愛のない婚姻関係に疲れており、ネフとフィリスは、フェリスを夫から解放させるため夫に保険金を掛けて殺すことを計画。そして、実行する。ただ保険金詐欺に関する同僚調査員バートン・キーズの長年の勘によって、死亡保険金の支払いが差しどめられてしまう。保険金が得られない2人は、手詰まりの状態になり、相互不信から互いを撃ち合うことになり、肩のみを打たれ、辛うじて生き延びたネフは、その後会社の録音機で全てを告白する。

内容はざっくりとこうなのだが、作中で奇妙なのは、ふたりは全くコソコソせずに、公共のスーパー・マーケットで犯罪の計画・進捗報告をしていることである。そこにコプチェクは、探偵小説との差異を見出した。

章後半の要約

コプチェクは、フィルム・ノワールを戦後の空虚さを風刺した作品として読む。戦後社会では共同体性が失われ、剥き出しの個々人たちが各々の「私的な享楽」に没落している。『深夜の告白』における、公的な空間であるスーパー・マーケットで、秘密として扱われるべき殺人の計画を堂々と相談しているシーンは、公共で維持されていた象徴秩序=「大文字の他者の欲望」が失われ、そうした秩序が抑制していた各々の私利私欲が剥き出しになった世界を暗示している。

古典的探偵小説に特徴的な「密室」には、何かが隠されているという秘密、謎深さがあるわけだが、フィルム・ノワールにはそのような"深い"空間はない。ノワールの世界では秩序=法が機能していないため、開放的ではあるが何も隠されていない空虚で薄っぺらい空間=「わびしい部屋」しかないのである。

またモダンの時代では、通約可能性と通約不可能性の拮抗状態、同一性と差異のどちらにも還元できないというアポリアがあり、探偵はその両者を行き来していたわけだが、ノワールが風刺するポストモダン的状況は、そうしたアポリアが解消されており、全てが差異に帰されているのである。

各節に対するコメント

○欲動による回り道

・「女性というシニフィアンの排除が古典探偵小説の物語空間の定義と言えるのだから、フィリス・ディートリクソン[ 不倫相手]という宿命の女の存在を思い出すだけで、『深夜の告白』はそれと違った種類の物語世界を作り上げていることが確認できる。」
→まずなぜ「女性」なのかだが、まず前提となるのが探偵の多くが男性として描かれており、『深夜の告白』の主人公ネフも男性であることだ。よって異性愛規範のもとであれば、「〈他者〉の欲望」に従った先にいるのは「女性」である。古典探偵小説における探偵は、常識的な凡人とは異なる犯人の思考を読み解くため、「〈他者〉の欲望」に沿ってしまってはならないのだが、調査員=探偵でもあるネフは「〈他者〉の欲望」に従うのである。つまり、犯罪映画フィルム・ノワールは、古典探偵小説の物語空間とは異なる物語空間になっているのだ。

・「古典的探偵物語からフィルム・ノワールへの移行を定義づける逆転は、同一化ではなく、意味と存在の、あるいはーー精神分析の言い回しではーー欲望と欲動の二者択一として理解すべきだろう。」
→まず「同一化」とは、「探偵が日々犯人の思考を読んでいるから、自らも犯人になってしまった」という話である。だがコプチェクはそう考えていない。ここでの「意味と存在」が何を意味しているのかは分からないが、ラカンの分析用語である「欲望/欲動」の問題であることが指摘されている。ここでの「欲望」とは単に「〈他者〉の欲望」のことを指しており、コミュニティに承認されている欲望のことである。一方「欲動」は、そうした「欲望」からはみ出るものであり、過剰なものである。その「二者択一」が、「古典的探偵物語」は二者択一ではなく両者の「行き来」だったわけだが、「フィルム・ノワール」ではどちらか一方であり、かつ「欲動」を選択しているのである。というより「フィルム・ノワール」の空間では「欲望」が機能しなくなっているため、必然的に「欲動」へと向かわざるを得ないのだ。

・「フィルム・ノワールの野心とはわれわれに警告することだ。(中略)なんらかの共同体の観念を再び導入して、行為遂行的にわれわれがその一部になることができるように縫合した全体性を生み出そうとしなければ、それぞれがあたかも義務であるかのように特殊な享楽に没頭する人々の、日に日に細分化されていく党派心は、「人種主義の勃興」にしか行き着かないだろうと。」
→まずコプチェクは「フィルム・ノワール」を時代の傾向として読んでいるのではなく、つまり戦後を象徴するものとして読んでいるのではなく、「フィルム・ノワール」を「時代に対する批評・風刺」として読んでいるのである。で、何を警告しているのかというと、共同体の喪失により、つまりコミュニティが承認する欲望がなくなることにより、各々の「私的な享楽」に没頭する人々が増えていることである。最後の「党派心」「人種主義」が何を意味しているのは分からないが、共同体が失われ「剥き出しの個」だけになったということだろう。

○声と画面外からの声
・「フィルム・ノワールの中でわれわれの説[ 私的享楽の没頭 ]に抵抗する要素を一つ選ぶとしたら、画面の外からの声(ヴォイスオーヴァー)だろう。ヴォイスオーヴァーは、主人公を話しことばに、つまり共同体に、意味に結びつけると考えてよい。」
→コプチェクは、フィルム・ノワールにおける「画面の外からの声」に注目する。この「画面の外からの声」は『深夜の告白』で言えば、ネフが自分が行ってきた犯罪を映像に合わせて説明する声である。このとき重要なのが、この声はネフが肩を打たれた後に、会社の録音機で告白している声であることだ。映画内で、深夜に誰もいない事務所に座っているひとりぼっちのネフが何度も出てくるのを考慮に入れると、フィルム・ノワールにおける「画面の外からの声」は、自分の犯した罪に対して単に「他者(聞き手)に理解可能な」記述をするものではなく、そこには語る行為自体に酔っている「私的な享楽」も感じられる。
→コプチェクが論じる、フィルム・ノワールにおける「画面の外からの声」論は少し込み入っているので、詳細は割愛したい。

・「共同体から始めるのではなく、全く逆に享楽から始めれば、自動的に共同体なるものを問題視し、享楽と社会との結びつきはほとんど計り難くしてしまうことになるのである。」
→この文の理解のために、浅田彰『構造と力』に解説を寄せた千葉雅也の文章の一部を紹介したい。

最初に、人間とは過剰な動物である、という前提が置かれる。他の動物種と違って、人間は本能がいわば壊れており、ホモ・サピエンスでありながら、「ホモ・デメンス」(錯乱人)である。(中略)だから、何かしらの秩序を設定する必要がある。という話は、現実のその順序だったとは言えない。我々は常にすでに、秩序の中にいるからだ。ただ秩序が乱れる、破けることがあるために、おそらく「抑えきれていないんだな」と推測される。(p. 209)

最初のは、つまり、人間は他の種と異なり全員が同じ本能(向き)を持っているのではなく、その向きは磁気嵐にあったかのように錯乱しており、それを統御するために2次的に共同体による秩序が与えられているという説明である。これは本能→欲動→欲望という話の道筋である。ただこうした説明は人間をつくった神の視点であり、われわれはすでにそうした共同体の秩序の中にいるため、欲動が乱舞していることは、秩序の「ほつれ」を通してのみ理解できるのだ。つまりわれわれは「〈他者〉の欲望」に対する過剰として各々の欲動の存在を理解できるのであって、それをはじめから「欲動=享楽」があるとしてしまっては、「自動的に共同体なるものを問題視し、享楽と社会との結びつきはほとんど計り難くしてしまうことになるのである。」共同体による秩序は意図的に作られるものというよりかは、所与に与えられている、抗いようのないものなのである。「欲動=享楽」を絶対視して、そこから議論を始めてしまうと、共同体による秩序を求める必要性や正当性が見当たらなくなってしまう。

○密室/わびしい部屋
・「ネフや彼の同類たちにとって、情け深く不能な大文字の〈他者〉が与えてくれるものーー享楽からの保護を求めることができない。(中略)犯罪映画とフィルム・ノワールのこの差異は、次のような享楽の問題に行きつく。犯罪映画の犯人は、いくら法を侵犯してはいても、やはり不能な〈他者〉に支配されており、当然のように〈他者〉を欺こうとする。フィルム・ノワールでは〈他者〉の支配は覆されている。」
→なぜ「情け深く不能」なのかは分からないが「大文字の〈他者〉」は、象徴秩序のことを指す。つまり「〈他者〉の欲望」である。それが与えてくれるものは「享楽からの保護」なわけだが、これは「欲動の防御柵」と同じ意味である。ラカンの精神分析における人間観では、人はつねに死へと向かいたい(欲動)存在であり、それでも死の危険を回避するために象徴界の〈法〉にしたがっているのである。しかし、フィルム・ノワールにはそうした〈法〉が機能していないのである。

・「密室のパラドクスで模範的に実現された、古いモデルの無限で汲み尽くせない空間に、ノワールではその逆のものが取って代わる。ネフが告白を行うような、誰もいないわびしい[ = ひどくもの静かでさびしい ]部屋がそれだ。(中略)これらが密室に変わる空間である。」
→密室のパラドクスとは、「常識的には閉じているが、実際は閉じてはいない」パラドクスである。このように探偵小説における密室には、何かが隠されている、その秘密、謎深さがあるわけだが、フィルム・ノワールにはそのような深い空間がない。全てが剥き出しになっており、何も隠されていない空虚であり来たりな空間である。これが古典探偵小説とフィルム・ノワールの対極的な差異である。

・「ネフとフィリスは二人で私的に会うのは止め、公共の場所で落ち合うしかなくなる。ジェリーズ・マーケットが密会の場所になるのだ。(中略)人目に着く場所であったら、リスクは減るどころか増えるではないか。計画を練るには、こっそりと相談しなければならないのではないか。しかしこの反論は、ノワールの宇宙ではジェリー・マーケットは私的空間に他ならないという点をわかっていない。」
→ジェリーズ・マーケットとは、作中のスーパー・マーケットなわけだが、常識からすれば、スーパー・マーケットは公的空間である。変な振る舞いをしたら、スーパーにいる他の人から変な目で見られるわけである。ただフィルム・ノワールの世界では、スーパー・マーケットは公的空間ではない、私的空間なのである。ネフと不倫相手フィリスは、人の目を気にせずに大っぴらに殺人の計画を相談するわけである。何か人目の付かないように暗号を渡し合うこともせず、声を出しながら計画を立てているのである。

○致命的な享楽とファム・ファタール

-欲動への防御柵として「映画システム」「宿命の女(ファム・ファタール)」
・「だからといって、欲動への防衛法が、その満足にくつわをはめる手段が全くないわけではない。」
・「フィルム・ノワールの視覚的なテクニックは、物語空間においては欠けている深さを埋めあわせ、補償するために、映像において人工的に深さを複製する役目に使われている。(中略)物語レベルでは象徴界は破綻するが、この欺きのテクニックは、防波堤としての一種の模造の象徴界を築き上げるのだ。」
・「ノワールの主人公とファム・ファタールの社会契約ーー社会的というのは、享楽という私的空間にある種の共同体を建設しようと試みているからだーーはこの場合、古典探偵小説が以前に描き出していた社会の紐帯の、無力で結局は致命的な代役であると分かるのである。」
→これまで共同体の秩序が完全に解体されており、あらゆるものが剥き出しになっているという話だったが、コプチェクは作品の内容ではなく形式面で、技巧的な厚みのあるテクニックを用いていることを指摘する。また内容面でも「宿命の女(ファム・ファタール)」=不倫相手フィリスとの「契約」が、一種の縛りとして、複雑さを作り出していることを指摘する。

-古典探偵小説とフィルム・ノワールの違い
・「古典探偵小説が支えていた象徴共同体と象徴交換の中性的な死のシステムはノワールでは姿を消し、私的な享楽がうじゃうじゃしてコミュニケーションの網の目を腐らせる世界が代わって現れる。」
・「探偵の空間が、探偵の欲望が関わる深い空間であるのに対して、ノワールの空間は、欲望が何もない、どうにも関わりようのない平べったいものである。」
→これらの文は、これまでの議論をまとめている文章である。古典探偵小説は象徴秩序があることによって成立しており、象徴秩序が「秘密」をつくりだしていた。だが象徴秩序が喪失し、私的な享楽に没頭する「剥き出しの個」がうじゃうじゃといる状況がフィルム・ノワールによって風刺されている現代社会のあり様なのである。つまりヒエラルキーの失った、スーパーフラット化した社会である。そうなってしまってはヒエラルキーを書き換える際に生まれる泡=「余地」のようなのは生まれないだろう。

-モダンとポストモダン論
・「探偵小説の空間とノワールの空間はそれぞれモダニズムの逆説的な論理ー限定された空間は無限の深淵であるーと、ポストモダン的逆転ーただの隣接性によってしか規定されない開かれたノマド的空間は、じつは閉所恐怖症的に限定されており、我々を私的で無感覚な存在の中に閉じ込めるーを表している。」
→最初の「モダニズムの逆説的な論理」は、集合のパラドクスを説明しており、「ポストモダン的逆転」とは、権威的なレールのない開かれた空間がじつは空虚なものであり、その中に閉じ込められているという逆転のことであろう。それぞれが探偵小説とノワールの特徴にあてがわれる。

・「この区別は、もう一つの区別を要求する。ポストモダニズムと、それに対応する第二の型のモダニズム、やはり限界の不在に依拠するモダニズムである。第一のモダンな空間では、そこに包含されている無限の数の対象物は、普遍的な等価性、通約可能性を帯びている。しかし第二の型[モダンニズム]では、対象物は互いに通約不可能である。ポストモダニズムにおいては、通約可能性と通約不可能性とのあいだのモダンのアポリア[ 難問 ]は、〈他者〉のかんぬきを外すことで、つまりこのアポリアを作り出した公共域を根絶することで溶け去るのである。」
→モダンとは、通約可能性と通約不可能性の葛藤を抱いているものであり、その緊張関係、拮抗があるものだ。全てを一枚岩に語る通約可能性に対して、「一枚岩ではなさ」=通約不可能性を指摘するような第二のモダニズムは、その意味でモダンの範疇にいる。ただそのアポリアを手放し、緊張関係を解いてしまうと、つまり〈他者〉=〈法〉=〈象徴秩序〉のかんぬきを外してしまうと、あらゆるものが何のまとまりもなく、ただ空虚に”うじゃうじゃ”といるだけになってしまうのである。そうして資本主義がつくりだす大きな渦にただ身を任せるだけになってしまうのだろう。
→ポストモダニストと呼ばれるフーコーやデリダは、別に「かんぬき」を外したかったのではなく、「一枚岩ではなさ」=通約不可能性を指摘するような第二のモダニズムを行い、適切に「同一性と差異の緊張関係」を作り出したかったように思える。哲学者である千葉雅也は、著作『現代思想入門』にて、フランス現代思想の態度を以下のようにまとめる。

「確かに現代思想には相対主義的な面があります。あとで詳しく述べるように、二項対立を脱構築することがそうなのですがらそれはきちんと理解するならば、「どんな主義主張でも好きに選んでOK」なのではありません。そこには、他者と向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。みんなバラバラでいいと言っているのではありません。一旦徹底的に既存の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。」(千葉, 2022, p. 22)

全体コメント

・ポストモダニズム的な思想運動は、つまりコプチェクで言えば「第二のモダニズム」であるが、すでにポストモダンな状況になってしまった社会において、意味をなさないように思える。例えばクィア批評は、「〈他者〉の欲望」と、それに対する「過剰としての欲動」がある中で、既存の「〈他者〉の欲望」を新たに読み換えるものである。そうしたクィア批評は「欲望/欲動」の緊張関係を「可能性の条件」にしていると言えるだろう。書き換える「欲望」がそもそも存在せずに、何の緊張感もない各々の欲動だけに満ちた「フィルム・ノワール」的状況では、クィア批評は不可能ではないか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?