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『スプリング・ブレイカーズ』

0.ハル

 それは、中学に入学して一ヶ月くらい、クラスの友だちに慣れてきて、それと同時に小学校で一緒だった連中との距離が徐々に離れてきた、どっちつかずの頃のこと。
 その日の学校帰り、川沿いの路を独りで歩いていた。「宇宙の宇の字はウカンムリ」という歌詞とも言えない一節にメロディーを付けることに夢中になっていた。不意に頭に浮かんだフレーズにメロディーを付けて遊ぶ遊びだ。深い意味はない。しかし、夢中になるあまり、周りが見えていなかった。
「きみは面白いことをしてるねぇ」
 急に声を掛けられて、僕はビックリした。同じ中学の女子の制服、待ち伏せしてたみたいに通り沿いのガードレールの支柱に座っていた。それが春日波流(かすがはる)だった。
「宇宙って言葉には、過去から未来、時間を超越した世界のすべてという意味が含まれている。コスモス。全ての時間と空間、そこに含まれる物質とエネルギー・・・」
 ハルは、初対面の僕に対して、旧知の友人であるかのようにベラベラと語り続けた。
僕は見知らぬ女子中学生と肩を並べ下校しているという事象に、ちょっとした違和感を感じていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ところで、空という字はなにカンムリか知ってる?」
 指で空間になぞり書きしながら、ハルが尋ねてきた。
「そりゃ、 ウカンムリでしょ」
 宇の字のウカンムリのことを考えていた僕は、とっさにそう答えてしまった。
「残念でした!」
 ハルは、得意げな顔を隠すことなく、そう告げた。
「アナカンムリだよ、穴。空はね、文字通り空っぽなんだ。地面や海と違って、いたって存在が希薄なんだよ」
「酸素は生物のエネルギーになっていると言っても、食糧を補わなければどんな生物も生き続けられない。空(うつ)ろな存在なのだよ」
 その時は、正直に言って「だから何?」と思った。浮かびかけていた曲のイメージも消し飛んでしまったし。
 ただ、家に帰ってから漢字辞典で空の部首を確認はしてみた、一応。

1.イギス

 イギスについて語っておかなければならない。
 イギスは、オスのビーグル犬だ。仔犬のときに酒に酔った父さんがペットショップで衝動買いしてきた。家族で世話をしていたが、やがて僕の部屋で面倒を見ることになった(僕の家の二階には、僕の部屋と隣接したちょっと大きめの物置部屋があって、そこの一角がイギスの寝床になっていた。そのためイギスと顔を突き合わす機会が一番多かったのだ)。
 当初、僕はイギスのことをチャーリー・ブラウンと呼んでいた。
「ねぇ、チャーリーブラウン、春日ハルが言うには、僕は…」
 そんな風に、その日あった出来事を語り掛けるのが日課になっていた。
「唐突な話しではあるが…」
 ある日、本当に唐突にビーグル犬のチャーリーブラウンが僕に話しかけてきた。
 「犬の名前がチャーリーブラウンというのはどうだろうか? チャーリー・ブラウンはスヌーピーの飼い主の少年のことだろう?」
「もしかして、気に入らなかった?」
 間抜けにも、僕はそう聞き返していた。
「実は私には五十洲(イギス)三六(サブロク)という名があって、で、犬らしく”イギー”というのはどうだろうか?」 
「……」
「いや、チャーリーブラウンと呼ばれるのが嫌という訳じゃないんだが」
「や、でも、本名聞いた後でイギーなんて呼べませんし……」
 イギスことサブロクさんは、生まれつき犬だった訳ではなく、あるとき中身が犬と入れ替えられてしまったのだそうだ(詳しい事情は教えてもらえなかったけど)。
 イギスは僕と二人きりのとき以外はビーグル犬に徹している。犬としてふるまうのは案外苦痛ではないらしい。しかし、イギスの正体に気付いた人間が一人だけ、そう、春日波流だけは、イギスが人語を解するビーグル犬であることを見抜いていたんだ。


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