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アルベルト・アインシュタイン2

 先日も、アインシュタインについて記した。これまでこの人物にそれほど関心を持ってこなかったこともあって、この科学者のことを改めて認識している。補足してその後知ったことを少し記しておくことにする。

 「ユダヤ人」その定義は明確に存在するのか、よくわからないが、Wikipediaには「ユダヤ教の信者(宗教集団)またはユダヤ教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者のこと。」とあった。Albert Einstein(1879.3.14ー1955.4.18)はHermann Einstein(1847.8.30ー1902.10.10)
を父に持ち、Hermannはシュトゥットガルトを首都にしたKönigreich Württembergヴュルテンベルク王国(1805-1918)に生まれている。Ashkenazimというヘブライ語でドイツを意味し、ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国に定住した人々を指す家系の一族に生まれている。Diasporaとは「撒き散らされた者」というギリシア語に由来する言葉で、パレスチナ以外の地に移り住んだユダヤ人及びそのコミュニティをもともとは指す言葉であったようである。

 Albertの母Pauline Einstein(1858.2.8ー1920.2.20)もヴュルテンベルク王国の出身で、夫Hermannは家族とともにAlbertの妹に当たるMaria Einstein(1881.11.18ー1951.6.25)が生まれた頃にミュンヘンに移り住むことになったようだ。Albertの誕生後、ミュンヘンに移住したのはHermannの弟Jakob Einstein (1850–?)の主導で1880年頃のことだったようである。直流の発電機と電流計を製造する電気会社を兄弟で起こし、その会社が頓挫する1894年頃までミュンヘンに、その後イタリアのパヴィーア、ミラノと移り住んだことがWikipediaに記載されていた。Hermannは1896年には全ての事業に失敗し、1902年心不全で亡くなった旨が紹介されてある。

 1896年1月、Albertが17歳を迎える年に、彼は父の許可のもとでドイツ帝国の徴兵義務を逃れるためドイツ市民権を放棄し、1901年にスイス国籍を取得するまで無国籍であったようだ。ちなみ写真は1940年アメリカ国籍を取得したときに取られた一枚のようだ。ドイツ、スイス、アメリカと国籍が変わっている。ユダヤ人であったことともこれには関係があったのかもしれない。Albertが5歳頃ミュンヘンで生活していた頃にヴァイオリンを習い始めたようで、母Paulineの影響は大きかったのではないかと想像される。母の旧姓はKochコッホであった。

 1918年11月9日ドイツ共和国宣言が帝政の廃止とともに国会議事堂でなされている。おそらくベルリンの1933年2月ヒトラーの首相指名の後に起きた火災で燃えた議事堂ではないかと思われる。1919年8月11日ヴァイマール憲法が制定されているが、この年にAlbertは妻と離婚し、Elsa Einstein(1876.1.18ー1936.12.20)と再婚している。ElsaはPaulineの姉の娘で従姉妹にあたった。Albertは1913年にベルリンに移り住み、アメリカに亡命するまではベルリンに暮らしていたようだ。妻Mileva Marić(1875.12.19ー1848.8.4)とはベルリンに移り住んで間も無く別居することになり、Milevaは2人の息子を連れてチューリッヒに移り住んだようである。5年の別居生活を経て1919年2月正式に離婚している。

 Albertの次男、Eduard Einstein(1910.7.28ー1965.10.25)は二十歳頃に統合失調症を発症し、母Milevaの死後は、チューリッヒ大学附属の精神病院Burghölzliで過ごし、55歳で脳卒中のために他界している。父Albertの渡米後は二度と会うことがなかったようだが、定期的に連絡を取り合っていたようだ。精神科医を目指す優秀な人であったようである。長男Hans Albert Einstein(1904.5.14ー1973.7.26)はカリフォルニア大学バークレー校の水理学の教授を長く務めたとある。Julius Robert Oppenheimer(1904.4.22ー1967.2.18)はHansと同じ年に生まれているが、1929年カリフォルニア大学バークレー校とカリフォルニア工科大学の助教授に就任し、1936年から双方の教授となったとWikipediaにある。

 カリフォルニア大学バークレー校にあるルコンテホールで、1942年夏、前年の暮れに真珠湾奇襲攻撃の前日に大規模な予算の支出を伴う陸軍の計画に格上げされた原爆開発計画の初の討論会が開催された。その契機には1939年8月2日アメリカ人エコノミストAlexander Sachs(1893.8.1ー1973.7.23)を通して、Albertが署名した米国政府宛の書簡が影響していた。広島、長崎への原爆投下後は、Julius Robert Oppenheimerは1947年から1966年までAlbertが籍を置いたプリンストン高等研究所Institute for Advanced Studyの所長を務めている。

 しかし、おそらく科学者としての知名度や活動、影響力では、AlbertがJulius Robert Oppenheimerに優っていたのは間違いなかったのだろう。Albertは1946年原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受け、発足間もない国連の総会に世界政府樹立を提唱する手紙を送り、イスラエル初代大統領を務めたChaim Azriel Weizmann(1874.11.27ー1952.11.9)の死去に伴い、イスラエル大統領就任を依頼され断っている。湯川秀樹(1907.1.23ー1981.9.8)も、恐らくAlbertの影響を受けていただろうことは想像される。

 核兵器開発は広島(1945.8.6)、長崎(1945.8.9)の投下後も開発が止まることなく、それを解体してゆく作業は、例えが適当ではないかもしれないがマイナス金利のように、徐々に進められる必要もあるのかもしれない。原発のために使用された核燃料の廃棄場所を何処に定め、長期間地中に埋めるかが進展しないように、核分裂に伴うエネルギーを人為的に扱うということは、そもそも無理のあるものだったのだろう。

 このようなことを記しても仕方はないと思うが、Albertからすれば、教え子に当たるLeo Szilard(1898.2.11ー1964.5.30)とEugene Paul Wigner(1902.11.17ー1995.1.1)が1939年7月16日にロングアイランドの別荘に現れ、ウランの核分裂の連続反応が爆弾に利用される可能性について教え子らに説かれ、米国政府首脳に当てた書簡に署名をしてしまったことが、結果的には広島、長崎へ人類史上初の原子爆弾の投下に繋がってしまった。そのことへの後悔の念はあったのだろうと想像される。余談になるが、教え子のWignerは1970年代後半に、旧統一教会の国際会議に参加し、創設者文鮮明から賞金を受け取ったこともあったらしい。

 書簡の署名の他、Albertがマンハッタン計画には関与した形跡はなく、アメリカで国籍を取得したのち、戦時下の1943年にアメリカ海軍省兵器局の顧問に就任して、魚雷起爆装置の改善に携わってもいた。それは亡命科学者としての当然の責務であったのだろう…。しかし、亡命直後からFBIに「アメリカの敵」として監視下に置かれた身でもあったようで政府からは警戒されてもいたのだろう。ベルリンで母親を看取り、亡命先のアメリカで再婚した妻と妹も看取っていたようだ。戦後、建国されたイスラエルについては、Hannah Arendtハンナ・アーレント(1906.10.14ー1975.12.4)とともに、イスラエル建国前にエルサレム近郊のデイル・ヤシーン事件等のテロ行為を非難する書簡をニューヨークタイムズ誌に掲載していたようだ。

 1993年8月20日、クリントン政権のもとで、ノルウェーのオスロで結ばれたYitzhak Rabin(1922.3.1ー1995.11.4)イスラエル首相とYasser Arafat(1929.8.24ー2004.11.11)パレスチナ解放機構議長の握手に象徴された合意は20年余りを経て打ち砕かれた状態にある。2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻も終結の目処は立たず、第三次世界大戦の予兆としてそれらを捉える見方も生まれている。核兵器や原発で使用済みとなった核燃料の扱いには手をこまねく事態も、今後も長く続くことになるのだろう。20世紀の人として知られる最も著名な人物の生涯を改めて知ると、その苦悩の一端を窺う気になってくる。小説家のRomain Rolland(1866.1.29ー1944.12.30)と平和運動に意気投合し、その関心も高い人物であった。一本の映画を見てそんなことを改めて理解する機会となった…。


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