見出し画像

アルベルト・アインシュタイン

 アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)に映画オッペンハイマーの試写を視聴してから少し感心が沸いてしまった。Wikipediaに記されていたことに過ぎないが、ほとんどよく知らなかった。これまで関心を持つこともあまりなかった。日本では同時代に生きた人物としては吉田茂(1878-1967)、広田弘毅(1878-1948)がいる。ちなみにJ・ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)は彼らから四半世紀ほど後に生まれていた。

 アルベルトはドイツ生まれで、卒業した大学はスイスのチューリッヒにある大学であった。ユダヤ人でもあった。そこはオッペンハイマーとも共通していた。ノーベル物理学賞の受賞は本人が考えていたのとは異なる光の光電効果についての業績で、1905年に様々な論文を発表し、その一つが特殊相対性理論であったそうだ。スイス国籍も取得し、最初の結婚は大学で同期の女性であった。最初の子は生まれて間も無く亡くなっていたらしい。スイスの特許庁に就職もしている。1921年日本へ向かう船旅の途上でノーベル物理学賞の受賞の知らせを受け、賞金は離婚した妻に渡る約束をしていたとのこと…波瀾万丈の人だった。

 後に大学の教員に転職し、教え子のレオ・シラード(1898-1964)とは家庭用の冷蔵庫の特許を共同で申請していた。1930年ドイツでのことらしい。ベルリン郊外に別荘も所有していたそうだ。ベルギー王室のエリザベートと面識を持ったのはその前年のことと記録されていた。1932年ジェームズ・チャドウィック(1891-1974)が中性子nutronを発見し、1938年ウランに低速中性子を当て、オットー・ハーン(1879-1968)とフリッツ・シュトラスマン(1902-1980)が核分裂を観測し、リーゼ・マイトナー(1978-1968)が…ハーンと共にノーベル物理学賞を受賞しても不思議はなかったが…核分裂が起きたことを確認し、年明けにニールス・ボーアによってそのことが発表されることになる。

 1933年ヒトラーが首相になった頃、ハンガリー生まれのユダヤ人物理学者レオ・シラードも米国に亡命していたようだ。核兵器の可能性に気がついたのはこの人が最も早かったと言われている。米国で初の原子炉を建設していたエンリコ・フェルミ(1901-1954)と研究もしながら、1932年頃から米国に渡りドイツに戻ることがなかったアインシュタインの下を1939年7月16日に訪ね、いわゆるアインシュタイン書簡が作成されてゆくことになる…。その書簡に署名したことを後にアインシュタインは後悔していたらしい。

 シラードはニューヨーク州ロングアイランドにあったアインシュタインの別荘を共に彼の下で学んだユージン・ウィグナー(1902-1995)とたずね、散々道に迷った挙句に辿り着き、書簡作成について協力を求めた際に、その話の途中でアインシュタインはドイツ語で「そんなことは考えてもみなかった」と叫んだと言われている。ドイツで核兵器開発に携わっていたヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(1901-1976)は広島の原爆投下の知らせを幽閉されていたイギリスの農場でラジオのニュースで知り、それを何かの冗談だろう…と思ったとの逸話もあると何かで読んだ覚えがある。確か、マンハッタン計画の一部としてアルソスミッションと呼ばれるナチスドイツによる核兵器開発妨害の工作がなされ、ハイゼンベルクはそのために幽閉されたのだったと思うが、正確なことではない。1941年ハイゼンベルクは実験施設で火災を起こし、そのことが広く報道され、アインシュタインはそれを知ってハイゼンベルクが核爆弾を間も無く完成させると勘違いしたこともあったようだ。

 戦後、オッペンハイマーは他界する直前までプリンストン高等研究所の所長(1947-1966)を務め、アインシュタインと顔を会わせる機会もあった。同じ理論物理学者として数年を共に過ごしていたとは映画を見て初めて認識した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?