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矛盾について

 今年(2023年)に入ってからだと思うが、生前「文芸評論家」との肩書きで紹介された加藤典洋の著作「敗戦後論」は、作家大江健三郎がノーベル文学賞受賞後に、「戦後民主主義」あるいは「戦後民主主義者」を語って文化勲章を辞退したことに関する批判として書かれたものなのだろう…と、不意に思いが至ることがあった。この様に表記すると、既に両者共に他界されてしまったから、後出しジャンケンのようで威張って記せるようなことではないのだが、人文学者として大江健三郎が生前文化勲章を辞退したことを「けしからん」と、批評家の加藤が批判したと誤解される読者もあるかもしれないが、そういうことではない。

 私にはそのことに差して関心がなかったし、「大したことではない」としか思っていなかった。恐らく、日本人として2人目のノーベル文学賞を受賞した大江健三郎に関心は当時集まったとしても、もはやどの様なことを述べ、当時大江が文化勲章を辞退したかなど思い出すことのできる人の方が稀なのではないかと思う。加藤典洋の著作によれば、大江は当時次のように断りを述べていたようである。

 …先達のひとり大岡昇平さんなら、この賞(ノーベル賞ー引用者)にあわせて、(文化勲章というー同)「国民的栄誉」があたえられるとして、やはりそれを辞退されるだろうと思う。そこで、僕もそうさせていただくことにした。申し訳ない気持ちにおいてではあるが、「戦後民主主義者」ーなんと懐かしい語感だろうーに「国民的栄誉」は似合わないから、と。そして思えば、故郷の森の少年時から、老年に近づいた今に至るまで、僕は「戦後民主主義者」のままなのだ。(「ノーベル賞を受けて文化勲章を受けぬ理由」東京新聞1994年10月15日)

 当時大江は還暦間際の50代であった。約30年前のことになる。大江よりも干支で一回り余り年少の加藤は40代半ばであった。加藤は「敗戦後論」の冒頭に、山形で育った幼少期の記憶、小学校2年生頃の経験について記す。遠足で他の小学校の集団と出くわし、両校の代表が相撲を取ることになって土俵が作られ、相撲を取ると、土俵際で応援する自らが所属する小学校の子どもが腰を落として尻をつき、それで勝負ついたとはならず、それが巴投げとなって他校の子どもが投げ出され、その途端に加藤が所属する学校の子どもたちが囃し立て、相撲であったはずのものが柔道に変わってしまった…という一瞬の経験である。加藤は次のように記している。

 記憶がはっきりしないのだ。でも、一瞬、あっと思い、次の瞬間他の生徒と一緒に拍手した、その時の後ろめたさを忘れられない。その後、しばしばわたしはこの場面のことを思い出すことになった、「あれだ」、と。 (「敗戦後論」加藤典洋著 11頁ちくま文庫)

 恐らく、加藤典洋は大江健三郎がノーベル賞を受賞して文化勲章を辞退することを、小学生の頃遠足で経験した相撲の応援同様に、周囲と共に拍手することはできなかったのだろう。加藤は大江が文化勲章を辞退するにあたって理由に挙げた大岡昇平について、詳細に記述している。

 「現代かなづかい」と「歴史的かなづかい」のどちらを使用するか、そのことが激しく議論されていた時期に、「小説家大岡昇平」松元寛(1994)の著作を引きながら、「…それによると、右に記したように大岡は1962年1月の『逆杉』を最後に、歴史的仮名づかいをやめている。ただ松元はそのやめ方とやめようがきわめて特異かつ厳密であることに、注意を向けるのである。」と述べ、1961年7月に「国語審議会」を批判して大岡が現代仮名づかいを批判した文章を記していたことに触れる。松元はそれについて、「これだけ叩けば、現代仮名づかいが今となってはもはや受け入れないではいられぬ程の勢いで普及しているとしても、今更それに同調するなど、とても考えられないように思われる」と述べるが、当の大岡は次のように述べ論理展開していたことを指摘する。

 現代かなづかいは矛盾に満ちた、早産児であった。それは決して国語審議会の連中の発明品ではなく、輪郭は明治三十八年で出来上がっていたものであった。敗戦のどさくさまぎれに充分検討することなく、提出されたものにすぎない。
 しかしそれが十年間新聞に採用され、強行されてきた実績を、無視することは出来ない。日本語を混乱させ、言語生活を貧弱にした罪は大きいが、現在の巨大なマスコミの影響力に鑑みれば、狂瀾を既倒に廻すのは不可能である。
 (中略)
 「現代かなづかい」は批判者の意見を取り入れた改正を加えて、用いるほかはない。わが国が敗戦の結果背負わされた十字架として、未来永劫に荷って行くほかはない。(加藤前掲著 73-74頁)

 このまま続ける前に、曖昧な知識として知っているので記しておきたい。正確さには自信がないが、この「敗戦後論」で問われた戦争責任についてと思われるが、哲学者の高橋哲哉と加藤との間では論争が展開されたことがあったようだ。髙橋はResponsibilityの英単語を挙げて、「応答可能性としての責任」を述べ、自分だけの孤独の世界、絶対的な孤立から脱して、他者との関係に入っていく唯一のあり方を主張し、加藤が「現在まで平和憲法が果たしてきた役割を過小評価しすぎており、『押し付け』を意識しすぎている。」と批判している。(加藤典洋氏と高橋哲哉氏の「論争」~『敗戦後論』と『戦後責任論』を中心に~松本純平さんの学生時の小論文より一部引用)

 加藤は結局この高橋哲哉の批判に対して反論を展開し、生涯自説を曲げない選択を保ったようだ。加藤はジキルとハイドのように日本社会が精神分裂している旨の批判を展開したが、日本国憲法を「押し付けられた憲法」と受け止めるか、あるいはそれを前提としながらも、それを自らのものとしてきたとする等の受け止め方は、現在も、これからも恐らく継続していくだろうと思う。

 一例として、アニメーションの制作に長年携わってきた宮﨑駿はWikipediaによると、次のように述べているようだ。

 現行憲法は15年間にわたる戦争とその戦禍を生き延びた人々にとって「光が差し込むような体験」であったと高く評価している。いわゆる「押し付け憲法論」であるという批判に対しても、1928年の不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)の精神を引き継いだものであり、特異な内容でもなければ、決して『押し付け』でもない…

 誤ったことを述べるかもしれないし、既に幾らか誤ったことも述べてきてしまったかもしれない。加藤典洋は晩年にかけて、「戦後入門」(ちくま新書)「9条入門」(「戦後再発見」双書 創元社)を上梓し、その死後にも「9条の戦後史」(ちくま新書)が遺稿をもとに出版されてきた。加藤は「押し付け」られた憲法を改めて自らの手で選び取る作業の必要性を説いたが、日本国憲法の「押し付け」については様々な立場があるのだろうと思う。大江健三郎が文化勲章を辞退したように、加藤典洋はその際に大江が言及した「敗戦後民主主義者」としてそれを辞退すると述べたことについて批判した。「敗戦後論」はそれを主に恐らく記された評論であり、そこで展開した主張を原則として取り下げることはしなかったのだろう。ここにあるのはもはや論理とは異なる「意地」が両者にあったかのもしれない。

 加藤典洋は、大江が「…戦後民主主義者は『少年時』から変わらないものとして語」り、「大江の文化勲章辞退は国からの贈り物は自分の戦後民主主義の理念に照らし、『汚れ』ているので、受けられない、と聞こえる。」と指摘し、大岡昇平が1971年11月に芸術院会員を辞退したことについて、大江とは対照的に「大岡は辞退の理由に、自分の汚れ、『汚点』をあげて」当時次のように語っていたことを紹介して以下述べている。

 私の経歴には、戦時中捕虜になったという恥ずべき汚点があります。当時、国は"戦え""捕虜にはなるな"といっていたんですから。そんな私が芸術院会員になって国からお金をもらったり、天皇の前に出るなど、恥ずかしくてできますか。(中国新聞1971年11月28日付、記事中の談話)

 続けて、加藤は次のように述べる。

 …しかし大岡がいっているのは、国からの贈り物を受けるの自分は「汚れ」ている、というそれとちょうど逆のことである。しかしこれは逆説でもアイロニーでもない大岡にとって、この世界で汚れていないものがあれば、それはそれこそが汚辱に満ちた存在なのである。(加藤前掲著99-100頁)

 つまり、大岡昇平に倣って国からの贈り物を断るというのならば、その理屈は違うのではないかという素朴な指摘に過ぎなかった。そして、更にこのようにも述べる。

 大岡は、自分の中で「恥ずべき汚点」の自覚の薄れるのをこそ恐れて生きた。(加藤前掲著100頁)

 続けて次の大岡の弁も引用する。

 二十六年前、私が一兵卒として前線に行き、死と顔を突合わせて帰って来たということが、決定的なことだったらしいのである。安らかなる老後を求める気持ちは、私にはない。働き続け、苦しみ続けて死ぬつもりである。(「六十三、四の正月」1972年1月) (加藤前掲著101頁)

 大江健三郎は晩年にかけての小説の執筆や新しい才能の発掘に私財を投じて取り組み、信念を貫いたのかもしれなかった。そして既に両者は他界してしまった。だから、無駄なことを記してきたかもしれない。第二次安倍内閣発足後の国内の政治動向は、恐らく小説家大江健三郎にとって、受け入れ難い、屈辱的なものであったかもしれないと想像する。その元首相が参院選最中に銃撃によって落命したことに触れて語る言葉も持ち合わせてはいなかったかもしれない…とも想像する。後続の小説家島田雅彦が、ネット上のメディアで半ば口を滑らす様に語り、批判を受けた様な言及はする気にもなれなかったのではないだろうか。

 重光葵がダグラス・マッカーサーと共に、降伏文書に調印(1945.9.2)し、公式に真珠湾奇襲に始まった所謂太平洋戦争の終結から、約14ヶ月後に日本国憲法は公布された。幣原喜十郎内閣の下で憲法問題調査委員会が設置(1945.10.25)され、松本試案はまとめられ翌年1月7日天皇に上奏されたようだが、それ以前に昭和天皇の意向を受けて近衛文麿も、「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要項」(1945.11.22)をまとめ上奏していた。しかし、近衛はGHQから出頭命令の期限となる1945年12月16日に自ら命を断ち、1946年2月1日に毎日新聞により「憲法問題調査委員会試案(松本試案)」はスクープされ、2月8日にGHQに提出された。そのGHQからの回答は2月13日になされ、ホイットニー民生局長から「日本案ハ全然受諾シ難キニ付自分ノ方ニテ草案ヲ作成セリ」と、白州次郎終戦連絡中央事務局参与等に提示されたとされている。(「昭和天皇の戦後日本〈憲法・安保体制〉にいたる道」豊下楢彦著16頁(岩波書店))

 大江健三郎の生まれた翌月、1935年2月18日に当時の貴族院で天皇機関説が批判されて、翌年には2.26事件が起きている。ちなみに天皇機関説事件が起きた際の議長は近衛文麿であった。批判の矢面に立たされた美濃部達吉は、勅撰議員として答弁に立ち、「一身上の弁明」とした演説で近衛文麿のことも批判していたようだ。当時、結局美濃部の著作は発禁処分となり、岡田啓介内閣の下で言論は封殺された。昭和天皇自身も評価していた美濃部の学説は封じられ、この時代状況は2度目の世界大戦へとつながる布石となった様にも思われてくる。昭和天皇はサンフランシスコ講和条約締結後に、国民の前で戦争に対する後悔の念を表明する希望を持っていた様だが、当時の首相吉田茂によって遮られた経過もあったことが現在では明らかにされている。

 加藤典洋の指摘に従うとしたら、大岡昇平の芸術院会員辞退の理屈に立つなら、大江健三郎はノーベル文学賞同様に、文化勲章を受け取る選択もあってよかったのかもしれない。そうでないならば、「戦後民主主義」云々と述べることもなく、「失礼ですが、個人的信条に沿わないために恐縮ながら辞退を致します。」その程度に述べていればよかったのかもしれない。そうであったなら、加藤典洋は「敗戦後論」など書く必要もなかったのだろう。しかし、そうはならなかった。人は誰もが限界を持ち、小説家大江健三郎も、文芸評論家加藤典洋も、それぞれに限界まで持てる能力を発揮してこの世を去ったことは間違いないだろう。

 自公政権が誕生する前、1996年1月に発足した橋本龍太郎内閣は、その約3ヶ月後に沖縄の普天間基地返還を米駐日大使との間で合意する。当時の沖縄県知事大田昌秀にも直に連絡して協力要請したらしい。しかし、それは辺野古移転では当時はなかった。日米首脳の合意はその後変遷してきたのである。そして、唯一の解決策として辺野古移転を譲らないのが自公政権になる。故大江健三郎はその政治的結論を決して戦後民主主義の成果とはみなさないだろう。憲法9条改憲案を生前提示した故加藤典洋も、それに納得することはなかっただろう。彼らの、これ等の矛盾は日本国憲法の下に主権者とされた私たちの眼前にあり、それは私達が避けては通れぬ、抱え続ける必要のある矛盾であるだろう。「敗戦後論」を加藤は次の様な情景が浮かぶとして、締め括っている。

そこでわたし達は子どもで、石を手渡され、こういわれる。
「さぁ、この石をできるだけ遠く投げてごらん」
私たちは精一杯、力をこめて投げる。
するとこういわれる。
「じゃぁ今度はそれを取りに行ってごらん」
わたし達はずんずんと歩き、それを取ってくる。
わたし達はもう一度いわれる。
「ではもう一度、この石はできるだけ遠く投げてごらん」
わたし達は行く。
 (中略)
きっとこの時、歩いて取りにいくその石をほんの少しでも手控えして投げたら、ゲームは終わる。それをすることの「意味」が消える。
大岡は、戦後というサッカー場の最も身体の軸のしっかりしたゴールキーパーだった。
一九四五年八月、負け点を引き受け、長い終戦を、敗者として生きた。
きっと、「ねじれ」からの回復とは、「ねじれ」を最後までもちこたえる、ということである。
そのことのほうが、回復それ自体より、経験としては大きい。 (加藤前掲著101-102頁)

 大江健三郎、加藤典洋の両者が故人となったから思うのかもしれないが、両者共にそれぞれの「ねじれ」をもちこたえながら、その生涯を終えたのではないかという気が不思議としてくる。敗戦国に生を受けた末裔として、わたし達もそれらの矛盾を抱えて生きていかなくてはならない。ご批判は承りたい。



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