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「憲法改正」に思う

 1945(昭和20)年8月17日、鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言の受諾を受けて総辞職した。この内閣は同じ年の4月7日に組閣され、4ヶ月余りの敗戦に向け組閣された内閣であった。鈴木貫太郎(1868.1.18〜1948.4.17)は直前まで枢密院議長を務め、77歳で首相就任しているが、この最年長での就任記録は破られていない。

 前年の7月にサイパン陥落を迎え(真珠湾奇襲攻撃1941.12.8の後、サイパンは実質日本の領土とされ、それを失った)、その後倒閣運動が起こって東條英機(1884.12.30〜1948.12.23)は退陣することになり、この後を受けて陸軍関係者から朝鮮総督を務めていた小磯國昭(1880.3.22〜1950.11.3)が首相就任し、大政翼賛会が結社される直前に総理大臣を務めた米内光政(1880.3.2〜1948.4.20)を海軍大臣として両人共同で組閣する形式で1944年7月に小磯内閣が組閣された。それが翌年4月7日に総辞職したのであった。

 鈴木貫太郎の後を受けて東久邇宮稔彦(1887.12.3〜1990.1.20)が皇族として憲政史上唯一の内閣を率いるが、GHQ司令に従えないことを理由に10月9日に総辞職する。この内閣は第一次岸田内閣(2021.10.4〜11.10)が破るまで、最短命内閣の記録54日を保持した内閣だった。東久邇宮稔彦は東條英機が首班指名された時期に首相候補に押す声が上がったとも伝えられ、敗戦後に組閣するにあたっては東久邇宮が「近衛公を相談相手としたい」と要望し、近衛文麿(1891.10.12〜1945.12.16)は国務大臣として入閣した経緯があったと伝わっている。

 1945年はこうして3つの内閣が総辞職し、濱口雄幸内閣(1929.7.2〜1931.4.14)で外相及び濱口銃撃後首相臨時代理を務めた幣原喜十郎(1872.9.13〜1951.3.10)が内閣を率いて憲法改正に向けて動く。幣原内閣は組閣の翌日に婦人参政権を閣議決定し、昭和天皇(1901.4.29〜1989.1.7)は東久邇宮内閣の総辞職に伴い失職した近衛に内大臣府御用係の役職を命じ、憲法改正に向けて調査を進めさせた。

  近衛文麿と共に、佐々木惣一(憲法学・行政法を専門とした法学者1878.3.28〜1965.8.4)も同じ役職を命じられ、敗戦後の憲法改正に向け調査にあたったようだが、近衛と佐々木の両者には見解に相違があったようで、同年11月22日近衛文麿は単独で天皇に「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」を奉答している。この後、GHQが12月に入って出頭命令を出し、憲法改正に向けた報告の後、近衛文麿は服毒自殺する。結局、それらの明治憲法改正に向けた動きは、現在の日本国憲法とは関係ないものに終わったようだが、敗戦後の昭和天皇に憲法改正に向けた高い関心があったことを窺わせる。

 幣原内閣は1945年10月25日、憲法問題調査委員会を設置し、松本烝治(1877.10.14〜1954.10.8)を委員長に改正案が作成され、翌年1月松本私案と呼ばれるものとしてまとめられたが、これも幣原内閣の正式な改正案とはされなかった。この松本試案は1946年2月1日毎日新聞にスクープされ、2月8日に日本政府はGHQに「憲法改正要綱」とその説明書である「憲法改正案ノ大要ノ説明」等を提出したが、GHQは「天皇は国家の最上位」「戦争の廃止、陸海空軍の不保持、交戦権も不許可」「封建制の廃止、皇族を除く華族の廃止」いわゆるマッカーサー三原則を幣原内閣に提示し、マッカーサーは毎日新聞のスクープ後GHQの民生局にも独自の憲法改正草案を起草するよう指示を出したと伝わっている。

  GHQ案は同年2月13日に、既に提出された「憲法改正要綱」に対する回答を聴取するためGHQを訪れた松本烝治と吉田茂(1878.9.22〜1967.10.20)に提示され、この後3月6日に「憲法改正草案要綱」として日本政府案が発表されている。4月17日には当時の枢密院(1888年大日本帝国憲法草案審議のため創設され、1947年5月2日に廃止された天皇の諮詢機関)で「憲法改正草案」は諮詢(天皇が枢密院に意見を求める行為を指す)されたが、4月22日に幣原内閣は総辞職して5月22日に吉田内閣が組閣された経緯から、草案は先例に従って一旦撤回され、5月27日にそれまでの審査結果に基づく修正が加えられて改めて諮詢されることになった。その後、6月8日枢密院本会議において美濃部達吉顧問官の反対を除き、「憲法改正草案」は賛成多数で可決された。

 憲法改正に向けた動きの最中、1945年12月15日に衆議院議員選挙法改正法案が可決成立し、それを受け最初の衆院選が第22回衆議院議員総選挙として翌年4月10日に実施されていた。敗戦後、立法府及び憲法の変革は同時進行していた。因みに選挙結果は日本自由党が第一党となり、党首は鳩山一郎(1883.1.1〜1959.3.7)であった。本来なら鳩山一郎内閣が組閣されるところだが、鳩山は公職追放され、天皇の大命が下る経過を経た最後の内閣として第一次吉田内閣が組閣されることになった。5月16日には第90回帝国議会が招集され、金森徳次郎(1886.3.17〜1959.6.16)が憲法担当の国務大臣に開会日の前日に任命された。

 1946年6月20日、「帝国憲法改正案」は明治憲法の規定によりに勅書を持って議会に提出され、6月25日に衆議院本会議に上程され、芦田均(1887.11.15〜1959.6.20)を委員長とする帝国憲法改正案委員会に6月28日に付託された。委員会での審議は7月1日に始まり、7月23日に修正案作成のための小委員会が設けられた。小委員会は7月25日から8月20日まで非公開で懇談会形式で進められ、「芦田修正案」などを含む修正案は8月21日可決され、8月24日衆議院本会議にて賛成421票、反対8票で可決され、貴族院に送られた。

 8月26日、「帝国憲法改正案」は貴族院本会議に上程され、8月30日安倍能成(1883.12.23〜1966.6.7)を委員長とする帝国憲法改正案特別委員会に付託され、9月2日から審議に入り、28日には修正のため小委員会の設置が決まった。10月3日修正案は特別委員会に報告されて可決され、10月6日貴族院本会議でも賛成多数で可決される。再び衆議院にも回付され、翌日衆院本会議でも賛成多数で可決される。この後、10月12日に枢密院に再諮詢され、2回の審査のあと、10月29日に2名の欠席者を除き全員一致で可決された。そして天皇の裁可を経て11月3日に新憲法は交布された。こうして象徴天皇制と戦争放棄を盛り込み、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を規定した日本国憲法は誕生した。

 憲法学者樋口陽一(1934.9.10〜)の著作によれば、中世立憲主義が「身分制的特権を持つ主体者間で、多元的に並ぶ権力を相互抑制することに留まる」のに対し、近代立憲主義は「身分制を否定して諸個人と国家が向かい合う二極構造を前提とし、その上で個人の権利を保障しようとする」違いが両者にあると説かれている。明治憲法(大日本帝国憲法)と日本国憲法を比較するなら、前者が中世立憲主義に、後者が近代立憲主義により近いものではないかと思われる。

 1932年5月15日、前年9月18日に起きた満州事変後に組閣された犬養内閣の犬養毅(1855.6.4〜1932.5.15)が殺害された。その翌月6日にジョセフ・クラーク・グルー(1880.5.27〜1965.5.25)は駐日大使として横浜港に到着し、14日に昭和天皇に謁見している。この後グルーは日米開戦時(1941.12.8)にも駐日大使を務め、1936年2月25日夜グルーは大使館の晩餐に前首相の斎藤実(1858.12.2〜1936.2.26)と鈴木貫太郎の両夫妻を招いていた。当時の日本の侵略政策に米国の立場から批判的でありながら、戦後の昭和天皇の戦犯としての処刑には反対する立場を持った知日派の米国高官であった。吉田茂との親交も深かったようである。

 仮に、日本国憲法が中世立憲主義に留まる憲法であると言及するなら、それは誤ったことを述べたことになるかもしれない。しかし、「昭和」に始まった軍部の暴走と、立憲君主としての天皇が、天皇機関説事件(ここでは1935年2月18日貴族院本会議において、菊池武夫が美濃部達吉の天皇機関説を国体に背く学説であるとして「緩慢なる謀叛であり、明らかなる叛逆になる」として美濃部を「学匪」「謀叛人」と非難したことに始まった一連の事柄を指すものと想定している)を経て、当時の立憲君主制として確立されていた政治体制から天皇の神格化が進む状況が生まれ、その結果としての敗戦を経て天皇及び皇室の存続は危機的状況を迎えていた。日本国憲法と現在の皇室の存続には密接な関係があると述べても、それは言及が過ぎることはないだろう。

 「敗戦」と言った経験を経ることもなく、国会で「憲法改正」が発議されるとしたら、公布・施行を経て80年近く経過し、17人の皇族で維持される象徴天皇制を抜本的に見直す時期が来ていることが、国民的合意の下で承認された頃がその一つの目処ではないかと思う。実現が可能かどうかは定かではないが、「皇室の解体」等を前提として、天皇及び皇室の構成員を国民に統合することを新たに明記し、現在の皇族に基本的人権を付与する手続きを経た上で、日本の歴史・文化としての天皇制の存続を、皇室典範を継承する新たな法律の下で定めることが不可欠になるのは想像に難くない。

 国民的合意形成には時間を要することが想像され、立法府での憲法審査会で丁寧な審議を重ねることが必要になるのは間違いない。容易に上述の結論に至ることはないだろう。国会の構成議員も、自公による多数の議員を占める状況ではこのような議論を重ねることは不可能に思える。与党派閥裏金疑惑は、主権者の与党に対する信頼を揺るがすには十分であり、上述したような審議を付託することはできないのは「言を俟たず」だろう。

 元日の能登半島地震を経て被災地の支援なども急務な中で、このような議論を重ねていくのは時期尚早なのかもしれないが、立法府において憲法審査会の開催は頻繁になされても、こうした議論が国民生活の日常に届かないことは、国政の怠慢を暗示させるものであり、深刻な事態である。ご批判は承りたい。

 

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