愛される準備

Dr.ゆうすけ( @usksuzuki )こと、ゆうすけ先生のnote「愛されるとは、『欠損』を受け入れられること」を読んだとき、涙が出た。
今でも、わたしにとって大きな精神的支柱になっている。

愛されるとは

読んで初めて、自分の欠損を受け入れてもらうことで自己肯定感が高まると知った。けれど、欠損を受け入れてもらうためには、いくつもの準備が必要なのだということを、最近つくづく感じている。

そのことは、「愛される」という極めて抽象的な言葉が、日常の言葉や行動レベルで考えたとき何に当たるかを実感する中で、かなり腑に落ちた。

例えば、褒めるというのはとても分かりやすい「愛されてる」ということ。
褒められたときに心から「ありがとう」と思えるか、というのは私にとって大きな試練。でももっと試練なのは、フォローしてもらったとき。

なにせわたしは、頼んだことを受け入れてもらっただけでも「あわあわ」していると最近気づいた。

仕事にしても、友達といても、フォローしてもらえることはありがたいことで、もちろん感謝はしている。
けれど、その何倍も「ごめんなさい」という気持ちが心の中を占めている。

自己否定して、もっと頑張らなくちゃと追い込む。なぜ失敗してしまったのか、次に同じ失敗を繰り返さないためにはどうすべきか、わたしの頭の中をぐるぐるまわる。

気分変調性障害との付き合い

この、自分を責めるという性質は、わたしが #気分変調性障害 という病気だったこととも大きく関係してると思う。わたしがその病気と診断されたのは今から3年前。そして、気分変調性障害の実態を知ったのは今年の3月...気分変調性障害の本を読んだからだ。

おそらく6歳くらいからずっとこの病気にかかったまま、家族はもちろん、学校の先生も、お医者さんも、そして自分すらも気づかなかった。
気分変調性障害という病気自体が、いつから病気にかかっていたのか判別が難しく、特に成人前に発症していると性格と認識されてしまうことが多い。

わたしも、本を読んではじめて、性格じゃなかったのかと気づかされることが多かった。そしてその何倍も、「ふつうの人」の見てる世界との違いに驚いた。より一層、自己肯定感を低めやすい感じ方になってしまう病気のように感じた。

気分変調性障害というのは、本やインターネットでも、正確な情報が極端に少ない。一般的にはうつ病をごく軽くした病気と認識されている。

気分変調性障害は、確かに症状はうつ病をごく軽くしたような感じ。でも、その原因はうつ病と大きく違って感じる。

ストレスがかかってなってしまうのがうつ病だ。それに比べ気分変調性障害は、思考や感受性に病気の原因があって、ストレスがかかる。だから、日々ストレスを感じ続ける。

別に遺伝子や脳の気質の問題ではないから、治療すれば治る。でも、この病気にはまだはっきりとわかる治療法や効果のある薬がわかっていない。そして、ストレスを抱え込んだ結果うつ病になって、それから気分変調性障害と診断されるケースが多いそうだ。きっと、自分がそうだとは気づかずに苦しんでる人がきっとたくさんいるんだろうなと思った。

とりあえず私は、自分の感受性の原因は病気なのだと知って、心からホッとした。自分を責める必要はないのだと肯定された気持ちだった。

そんなとき、ゆうすけ先生のnoteを読んだ。読んで、自分のこれまでのこととかを振り返ってひとしきり泣いた後、ようやく道が見えた気がした。

それからわたしは、少しずつ自分を許したり、誰かに打ち明けたりした。
そうしていくとき、生きることが少しだけ大変じゃなくなっていくのを感じていた。まず、自分を責める回数が激減した。これは大きな進歩だ。

諦めという優しさ

そして最終的に、受け入れてもらいたいと感じたときにはじめて、相手のことを受け入れることってなんて難しくて、でも愛おしいんだろうと思った。

欠損を受け入れるとは適度に「諦める」ことではないだろうか。

そして、受け入れるために何が必要かと言うと、わたしの場合、自分の欠損を認めることだった。「ありのまま」でいいとよく言われるが、わたしは心の奥底では「こんなこともできなくては人間失格!!」とか感じていたんだと思う。つまり、わたしは常に人間失格だった。

特にわたしの場合、気分変調性障害という病気のせいで、極めて自己否定しがちな感受性を内在させてきたんだと思う。
だから「ありのまま」に在りつづけることは、なかなかに冒険で、突然誰かに怒られるような気がしていた。

でも、自分が完璧じゃなくてもいい。そう実感するのには時間がかかる。頭の片隅で考えた程度でできてしまうようなことじゃなかったんだと今になってわかってきた。

そして、自分に向き合うにつれ、完璧じゃない自分も、相手も、気づかぬうちに責めていたとようやく気付けた。

そして、人間は不完全だというときの「不完全さ」の許容範囲は、わたしの想像をはるかに超えていた。それを発見し続けることが、わたしがこの世界で生きる生きやすさや、自由につながっていくように感じている。

諦めるということは、ヤケクソになることとは違う。適度な諦めは優しさや楽しさをもたらして、心が軽く動きだす感じ。晴天の空のもと、頑張れない自分なのに「わくわくしていいんだ…」感じている。そうしてて初めて、人の温もりをありがたいと喜べたりするんだと、実感した。

田舎の町に、引きこもりの人も含めたフリースペース、フリースクール、そして職業訓練施設を作ることを夢見てます。応援していただけたら嬉しいです。