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信じぬ者は、救われず。「哭声-コクソン-」

「あんたはサマリヤ人だ! よそ者だ! 悪魔だっ! そうとも、やっぱり悪魔に取り憑かれているんだ」ユダヤ人の指導者たちは喚き立てました。

ヨハネの福音書 8:48 リビングバイブル

 イエスキリストが十字架にかけられた理由の一つとして「彼がサマリヤ人であったから」というのがある。サマリヤ人は当時、異教徒や異邦人の血が混じっていることを理由に、律法を重視するユダヤの人々から軽蔑されていた。
 サマリヤ人を、彼にとっての同胞を、長きに渡って蔑み、冷遇してきた自分たちにまで、深い慈しみと愛をもって接する "サマリヤ人"のキリストが、ファリサイ派の人々の目には、ひどく気味悪いものとして映ったのだろう。
 また、それだけではない。差別的な言動を、意識して繰り返す輩たちは、絶えず、恐れを抱くこととなる。いつの日か——自分たちによって虐げられてきた者たちが、自分たちに復讐するのではないだろうかという恐れを。
 当時のファリサイ派の人々は、信じるべきものを信じず、疑うべきではないものを疑った。結果として彼らは、ユダヤ人のみならず、ありとあらゆる命の救い主である、イエス・キリストを、自分たちの手でもって死なせてしまうこととなる。彼らの魂が安らぎを得ることはあるのだろうか、いいや、無い。主が彼らを許さないためではない——怒りや復讐心などといったものは、肉からなる思いに過ぎず、肉によってではなく霊によって存在している主が、そのような感情に囚われることはないからだ——彼らが彼ら自身を許さないためである。
 また、この映画の中で起こったことについても、同じことが言える。

 主人公をはじめとするコクソンの村人たちが、國村隼氏演じる「よそもの」を、村で起こっていた奇怪な事件の犯人として、真っ先に疑ったのは何故か。彼らの心にのさばっていただろう"日本人という民族全体に対する偏見"はさることながら、先述した”恐れ”のためもあるのではないだろうか。
 しかし、事実としてコクソンで連続して起こっていた事件は、健康食品に流入した毒キノコがもたらしたもの、それ以上でもそれ以下でもなく、「よそもの」は事件の犯人などではなかった。つまるところ彼らは、疑うべきではない人を疑い、あまつさえその人を死なせてしまったこととなる。

 死ぬべきではなかったのにも関わらず、疑心に囚われた人々の手によって殺されてしまった、という意味で、件の「よそもの」と、福音書におけるイエス・キリストは相似している。(その相似を単なる偶然の産物ではなく、決定的なものとしているのが終盤、彼の掌に現れる聖痕なのだ)
 「よそもの」の真意が、また彼がコクソンで実際のところ何をしていたかが、映画が終わってもなお、明らかにされない理由はここにあるように感じる。神、それに類する存在の真意を、我々のような人間が理解できるはずもない。

 終盤、主人公はある一つの決断を迫られる。「よそもの」を悪霊と断じる白い服の女を信じるか、或いは彼女を悪霊だとする祈祷師を信じるか。主人公は最終的に、かの女が制止するのも聞かず、家へ飛び込んでいく。だからといって彼が祈祷師が言ったことを信じたのかというと、そうではない。彼は、誰のことも信じなかったのである。
 彼は、信じるべきものを信じず、疑うべきではないものを疑った。彼が家族を喪うことになったのは、その報いであると言えるだろう。
 キリスト教は言うなれば、救いの宗教である。主の何よりも深い愛を信じるのであれば、過去にどのような罪を犯した人間であっても、神の国に迎え入れられ、救われる。しかしながらそれは裏返すと、何者をも信じず、疑い続ける者には、決して救いは訪れないということでもある。

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