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ジャパンブルーは藍染の服から

明治時代、来日した欧米人に「ジャパンブルー」と言われるほど人々は藍染の服を着ていた。木綿の服には抗菌性がないため、抗菌性のある藍染をしなければ着られなかったからだ。

だが、日本では藍の染料の栽培場所は限られる。徳島県吉野川流域などが主な産地だ。

藍の適地は暴れ川の近くだからだ。

『四国三郎』と呼ばれた吉野川はよく洪水した。
治水技術が未発達の時代には、台風シーズンによく決壊し、収穫前の米に打撃を与える。
だが藍なら台風シーズン前に収穫ができるというメリットがあった。
平和な時代にはコメよりも商品作物の需要は高い。

ちなみに「筑紫次郎」の筑後川流域や「坂東太郎」の利根川流域も同じように適地で、それぞれ独自の染め物を発達させた。

洪水によって肥沃な土が流れ込み土が入れ替わるため、連作障害を起こす藍を連作できるのも強みだった。 徳島藩は藍を特産品として品質向上に努め、加工技術を発達させたことにより全国市場でも人気を博す。

一説によると、全国から来た藍商人により、各地の踊りが伝えられ、阿波踊りにも取り入れられたらしい。

藍染のピークは明治後期。
この時期を境に化学合成された安価な藍に押され、昭和中期には最盛期の1万分の1にまで減少した。

現在は天然素材が持つ色合いと伝統で徐々に回復している。 世界的にも特殊な製造方法の藍として一定の人気はあるが、高価なため輸出実績はないらしい。

ジャパンブルーの未来に期待したい。

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