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東京都現代美術館 『あ、共感とかじゃなくて。』感想


はじめに

東京都現代美術館に行って、『デイヴィッド・ホックニー展』と『あ、共感とかじゃなくて。』を観てきました。

デヴィッド・ホックニーの展覧会はすごくたくさんのひとが来ていました。かなりの混みようでした。そこまで有名な作家さんではなかったので、意外でしたね。まあ、デイヴィッド・ホックニーはカラフルな画風で有名な画家なので、取っ付きやすいところがあるのかもしれません。

ホックニーの作品にはある種の奥深さがあります。iPadで描かれた作品が展覧会の後半に出てくるのですが、本作には「タネ」があって、その「タネ」を意識せずに見るか、作品を見て探り当てるか、すでに「タネ」を知っていて鑑賞するのか。絵画鑑賞の仕方によって、絵画作品への認識が変わっていきます。その妙味は……今回書きたいことではないので、省略します。

展覧会の紹介

『あ、共感とかじゃなくて。』は5人の現代美術家によるグループ展です。インスタレーションやビデオアート、あるいはその組み合わせで構成されていました。東京の美術館なのに、なぜか関西地方を舞台にした作品が5作品中2作品もありました。

タイトルの通り、共感とは異なる方法で対象にアプローチした作品が展示されていました。

有川滋男

展覧会の最初に、有川滋男の『「(再)(再)解釈」シリーズ』と『ディープリバー』が放映されていました。見知らぬ土地について調べ、その調べた内容をもとに新たに物語を構築する作品です。映像は全編を通して、題名にある土地についての言及はありません。ほとんど関係のない、“いろんな意味で無意味”な所作に終始します。

普通に考えれば、土地のことを調べなくても制作できる作品なのではないかと思います。当然、有川滋男の作品に土地への共感があるわけはなく、鑑賞者も作品の中身に共感をおぼえることはないでしょう。

と、書いたところで、一つ疑問が出てきます。土地を舞台にした作品に、本質的にその土地への共感が必要なのかという話です。有川滋男の作品を観ると、土地への共感は「あれば十分だけど、必要とまではいかない」ことに気づかされます。土地に関する物語において、大事なのは物語であって土地ではない。このコペルニクス的転回には意表を突かれました。

山本麻紀子『巨人の歯』

次に展示されていたのが、山本麻紀子の『巨人の歯』を中心とした作品群です。『巨人の歯』はまさに大きな歯の形をしたハリボテなのですが、作品群で重要な意味を持つのは、小さなモニターにひっそり映されたビデオです。

鴨川の上流に落ちた『巨人の歯』が川を下り、鴨川デルタを通過し、川端通に沿って流れながら、最後、新幹線とJRの在来線が走るところの近くで拾われるという話です。その拾われた場所には、もと崇仁小学校がありました。

もと崇仁小学校。そう、『巨人の歯』が流れ着いた場所はやがて再開発されることになるエリアなのです。『巨人の歯』の周囲には再開発の過程で「発掘」されたがらくたや、そこに生えていた草木で染められた作品が展示されています。

再開発が進行していたかつての被差別部落を舞台に作品を創る、山本麻紀子はその地に移転することになる京都市立芸術大学で学び、職を得たひとです。そう、この作品において一番重要なところは、再開発でやってくるひとが、再開発される場所で生活をしていたひととともに、土地の新しい物語を作る、ところなのです。

その土地にまつわる偽物の神話を創ることで、再開発される地域にも「それ以前の歴史があった」ことを思い起こさせ、ある意味、(再開発される地域の歴史を塗り替えることになる)自分たちの再開発を正当化しているわけです。

山本麻紀子の行為が善か悪かは、わかりません。ただ、再開発というものはそういうものだと私は考えます。

そんな善悪の判断よりも大事なのは、山本麻紀子と地域の人々、つまり京都市立芸術大学と崇仁地区の関係をつくるきっかけになったのは、決して共感ではないということです。

この地区に愛着を持っているひとだったら、ともすれば作者は「加害者」のように見えるわけです。だから、作者のほうから共感を持って近づくことができないわけです。そこで、互いの共通の物語を作ることで、新しい関係性を生み出そうとしたわけです。

『巨人の歯』という偽の神話は、再開発を正当化する行為でもあり、再開発する側とされる側がともに新しい土地の歴史を作るための手段でもあるのです。暴力的で共感できるところはない。だけれども、正反対の立場にいる人間同士で建設的な関係が生み出される。そうしたアンビバレントなところがこれら作品群を現代美術たらしめているところでしょう。

最後にひとつ不満を。本作に対するいくつもレビューを読みましたが、どれを読んでも、この視点が欠落していました。残念でなりません。SNSに書かれているアマチュアの方々ならそれでも仕方ないのですが、お金をもらっているレビュアーがこれでは仕事の質を疑います。本気で美術鑑賞をしているのでしょうか?

武田力『朽木古屋六斎念仏踊り継承プロジェクト』

演劇の俳優をしている武田力が全国各地の民俗芸能を継承するプロジェクト。

滋賀県湖西地方にある朽木古屋には「六斎念仏踊り」という民俗芸能があります。六斎念仏踊りそのものは京都市で残っている伝統芸能なのですが、朽木古屋には“鯖街道”(京都市と福井県嶺南地域を結ぶ街道群)を通して伝えられました。

朽木古屋の六斎念仏踊りは失われゆく無形文化財になりかかっていました。朽木古屋は旧朽木村のなかでも山間部にあります。若者が村を出たきりなかなか帰ってないために、次世代の文化の担い手がいないのです。その文化の担い手を引き受けることにより、民俗芸能を守ろうというのが武田力のプロジェクトです。

本作で作者が向き合っている相手は「地元に根を下ろしている村人」であり、作者は「よそ者」です。村人の心情は複雑です。自分たちの伝統芸能を守ってくれるのはうれしい。しかし、その守り手が朽木とはまったく無縁のよそ者である。このジレンマは、ビデオのなかでさらりと村人の口から出てきます。

内と外の関係を保ちながら力を合わせて、成功に向かっていくプロジェクト。感情的なシンパシーとも、打算的な利害関係ともつかない関係を持って受け継がれる民俗芸能。作者と村人とをつなぎ止める「なにか」を「共感」という表現するには、あまりに稚拙であるように受け止められます。

あとの作品は、“お約束”の3000字が近づいたので、割愛します。

本展を通しての感想

本展には立場の異なる相手に対して、共感とは違う感情や理屈でアプローチする作品が並んでいました。誰かと関係を築くための接し方にはいろいろな方法があるのだ、という気づきを与えてもらえました。「ホックニー展のついで」のつもりで観るのはもったいないと思える展覧会でした。

ただ、会場を出た後、展覧会の名前がこれでよかったのか? という疑問も出てきました。

『あ、共感とかじゃなくて。』とてもキャッチーで、テーマに近いネーミングです。けれども、ニュアンスはズレています。

本展の展示作品は共感とは別の方法で表現の対象にアプローチしています。なぜなら作家と作品を「共同制作」したひとたちは、なんらかの事情で作家に対して共感を持ち得ない立場にあるからです。作家が共感というアプローチを使えないから、方法的に共感とは別の思いで相手とつながろうとしているのです。

『あ、共感とかじゃなくて。』というタイトルだと、作家が最初から共感を拒んでいるようにとらえられます。作者たちは相手に共感できるのに共感しないのではなく、相手に共感してもらえそうにないから共感してもらおうとしていないのです。

世の中、相手に共感をしてもらえそうにないことをお願いする仕事をしているビジネスパーソンがいっぱいいます。営業マンもそうですが、花形部署の企画の仕事だって相手に頼んでばかりです。もちろん、その相手はなかなか共感してくれないひとが多いこともしょっちゅうです。

本展は人間関係に悩む10代よりも、仕事で頼みごとばかりしているビジネスパーソンにこそ観られるべき展覧会です!

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