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蔦アパートメント

私は電車の網籠にポール・スミスのレザーとウールのコンビネーションのバッグを置き忘れた。思い出したのは電車を降りて茗荷谷駅の改札を出る際にスマートフォンを手に取ろうとした時だ。

こう言う時ほど人はクールであらねばならない。

改札にいた駅員に置き忘れの連絡をした後、池袋から折り返してくる電車を確認する。その間10分ほど駅員と駅のホームで待機する。若い男の駅員だった。ある程度業務に慣れてはいるものの、まだ初々しい雰囲気を仄かに残していた。

見知らぬ男二人が隣り合って10分もの間無言で過ごすにはいささかプラトニック過ぎると感じたので、私はなんとなくホームから見えた線路沿いの蔦が生い茂るアパートメントについて話し始めた。

「このアパートメントはなかなか趣きがありますね。」

「そうですね。いつも見てますけど、改めて見ると凄いですね。」

そのアパートメントは蔦が生い茂るを通り越して殆ど蔦に飲み込まれていた。窓の外は蔦のカーテンが縦横無尽に絡み合っており、窓が完全に覆われている部屋もあった。

「あの部屋の中から蔦のカーテン越しに丸の内線を見るのも趣きがありますね。」

「それはとても趣きがありますね。」

年の離れた男二人がそんな拙いやりとりをしていると、私がバッグを置き忘れた電車が戻ってきた。バッグはそのままの姿で網籠の上に置かれていた。

「ああ、あれです。ありました。」

「良かったですね。」

「はい、ありがとうございました。」

私はこの10分間の出来事を忘れないように、置き忘れたポール・スミスのバッグに記憶を詰め込んで改札を出た。

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