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だしおさん

変質者にはこれまでの人生で3回ばかり遭っている。

その中でもっとも恐怖度が高かったのは、あれは私が大学生の時のことだ。

確かあの日は友達とご飯を食べて帰ってきて、家に着いたのが午後9時頃。玄関のドアをただいまー、と開けようとしたその瞬間、その青年は表通りからダダダダダと全速力で走ってきた。

私の実家は表通りから少し奥まったところにある。玄関にたどり着くまで車が二台停められるほどのスペースがあり、その距離、約3メートル。見知らぬその青年はその3メートルを助走コースとしてまっすぐに走ってきた。

ああいう時、人間というのは驚きのあまりなんのリアクションもとれないものである。突然の非常事態に馬鹿みたいに口を開けていた私だったが、青年が変質者であり、標的がこの私だとわかった時はもう遅かった。
気づけば私はドン! という衝撃とともに両胸を平手で突き飛ばされていた。

平手?

しかも、ムズ! ではなく、ドン! である。

後年、私はながらくあの変質者の青年の謎の行動について考察し続けていたのだが、やがて責任の一端はどうやら私にあるらしい、ということがわかってきた。

つまり、胸に関する限り、私は母ではなく父の遺伝子を受け継いでしまったというのがその理由である。
だからその青年としては、私の胸を見てこれはムズ! ができない胸であるということを瞬時に悟り、本来ならばAVのようにグワシと鷲掴みでいきたいところを、急きょ武道の掌底みたいに平手でドン! に変更せざるを得なかったのである。

結果、変質者の青年はものも言えない私の胸をドン、と突き飛ばしただけでなんの収穫もなく走り去り、恐怖で腰が抜けた私はその後家に飛び込み、警察を呼ぶ大騒ぎとなったのだった。

そんな恐怖も覚めやらぬ頃、今度は卒業旅行先のヨーロッパでドイツ人の露出狂に遭った。

あれはデュッセルドルフからハノーバーに向かう列車のコンパートメントの中で、私と連れのユカちゃんは売店で買ったフランクフルトソーセージなんかを「これ意外といけるね」なんてかじりながら喋っていた。

今思えばその行為が露出狂を惹きつけてしまったのかもしれないが、当たり前のように個室に入ってきたドイツ人のその大男を止める勇気も語学力も私たちにはなかったのである。

やがて彼は当たり前のように私たちの前でズボンのジッパーをおろし、中のものをポロンととり出し、右手を使って世の男子全員がやるというあの行為を開始した。

立派だったのはユカちゃんで、彼女は例によってショックでお地蔵様みたいになっている私の腕をガシッとつかみ、「出よう」と荷物をひっつかんでそのまま外に連れ出してくれたのだ。

大男は私のすぐ真正面に座っていたので、あのままお地蔵様でいたら私は数分後には確実に「水かけ地蔵」になっていただろう。

持つべきものは危機管理能力にたけた友である。

しかし驚いたのはドイツ人の露出狂のそのサイズで、大げさでなくキリンビールくらいあった。いろんな人に言ったが信じてくれない。中には、

「釣り損ねた魚って大きく見えるものよ」

などとワケのわからない上からアンサーをしてくる人もいたが、そもそも釣ってないし釣りたくもない。でも本当にキリンビールくらいあった。小瓶ではなく中瓶のキリンビールである。

しかしあれだけのサイズがあれば露出狂にもなりたくなるのだろうか。
その点、今考えてもどうにもわからないのが、昔、私の家の近所に出没していた露出狂の「だしおさん」である。

だしおさんは推定年齢40歳くらいの男性で、私が通っていた小学校の通学路に好んで出没しては、学童に向かって自分のむき出しの性器を見せつけるのを喜びとしていた。
だれがつけたか、いつしか彼は私たちから「だしおさん」と呼ばれるようになり、当時流行っていた「口裂け女」などと同カテゴリーに入れられていたのだった。

しかしこの「だしおさん」、露出するモノのサイズが極端に小さかったのである。

あれでどうして出す気になれるのか、私は子供心に不思議に思っていた。なにしろ私は銭湯育ちなので、いろんな男性のものを見ては目が肥えており、サイズには一家言ある。その私から見て、百歩譲ってノーマルモードだとしても、つい二度見してしまうくらいだしおさんのそれは小さかった。

なのに、だしおさんはそんなサイズのハンディなどものともせず、雨の日も風の日もバッターボックスに立ち続けた。バッターボックスとはすなわち我々の通学路のことである。そのうち学校側もだしおさんを警戒するようになり、事前に「だしおさん注意報」なるものが発令されるようになった。
ほとんどクマか光化学スモッグである。

ところが、この攻防戦に関してはだしおさんの方が数段上手であった。
今思えばだしおさんは我々の学校のイベントスケジュール表を入手していたのだろう。ある5月の晴れたその日、全校で行われた「お茶摘み大会」の日に彼は現れた。

「お茶摘み大会」とは生徒全員が学校から1キロほど離れたところにある農家の茶畑まで移動し、摘んだお茶の量を競い合うという田舎ならではの全校行事である。成績優秀なグループには鉛筆やノートなどが賞品として授与されるのだが、なかには柿の葉などを混ぜてカサ増しする不心得者もいたりして、そういう輩は厳重な処罰の対象になっていた。

その「お茶摘み大会」の移動ルートにだしおさんは忽然と現れたのである。

つまり、その日は全校生徒がだしおさんのものを拝む羽目となった。しかも、その日くらいはだしおさんも本気を見せて頑張ればよいものを、相変わらずだしおさんのものは気の毒なほど小さいのである。私は心が痛くなった。だしおさんが自分の身内でなくて本当によかったと思った。

しかも子供というのは残酷なもので、ヒャアと叫ぶのはほんの一瞬。あとは慣れてしまうのである。しかも指導教員まで飛んできて、我々に対し「だしおさんに反応してはいけません」という無言の圧をかけてくる。

その結果、我々のお茶摘み行軍は、ほぼ無言のままだしおさんを無視して黙々と進軍する形となった。ほとんど映画「八甲田山」の死の雪中行軍である。よって、この晴れ舞台におけるだしおさんの「キャーキャー騒がれたい」という目論見は、本人の意に反してあっけなく不発に終わったのであった。

この日、天はだしおさんを見放したのである。

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