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チェイサーゲームWと、わたし

0.はじめのはじめに


今回の記事は、LGBTQ+についての記述がたくさんあります。正直どうもな…と思う方は、また次回何かの折に記事を読んでやってください!
いつもありがとうございます。



0、はじめに


やってしまった。こんなに書くつもりじゃなかった。
チェイサーゲームWに出会えた感謝の気持ちを、ただただシンプルに述べるだけだったのに。
自分のことをたらたらと書き連ねてしまった。

正直、こんな風に自分について表現することは、とてもとても勇気がいる。
だけど、それでも語りたくなってしまった。
当事者としてこのドラマを受け取った者として。

というわけで。
このドラマを見ていて、ここ数年ずっと蓋をしていた心の箱をそっと開けることができたからこそ、とんでもない自分語りが始まってしまいました。ほんっとすみません。
もしかしたら、わたしの印象が変わってしまうかもしれません。
それでも表現したいと思ったのは、他でもないわたし自身なので、それもまたそれと思っています。もし何らかの複雑な思いをさせてしまったら、ごめんなさい。

では改めて。
この記事では、当事者として、そして、菅井友香さんを推す者として、このドラマに出会い、考えたこと、気づいたことを、自分の歴史を紐解きながら書いています。
めちゃくちゃ長いので、あの、気が向いたら・・・はい。

では参ります。

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チェイサーゲームWで、最愛の推しである菅井友香さんがW主演を務められると知ったその日から、何かが心の中でずっとうごめいていた。
これは一体なんなんだろう。
ずっと不思議な気持ちだった。


1.「私の元カノ」

何よりもまず、ドラマの副題に衝撃を受けた。
「パワハラ上司は私の元カノ」
元カノなのである。
つまり、2人は恋人同士だったという前提が、この一言から明白なのである。

「ああ、このお話は、2人が出会って、どちらかが恋心に気付いて、近づく葛藤があって、という話とは、違う。2人が愛し合っていたことは、前提としてあるんだ。」

そう気づいたわたしは、なぜだかとても安心したし、「これってとてつもなく凄いことだな」と思った。


思い出す。
大学生の頃、授業をサボってひとりで渋谷の映画館に一本の映画を観に行ったことがある。
女子高生が、女の子に恋をする話だった。
映画と原作、どちらを先に観たんだっけな。
作品そのものの世界観云々ではなく、物語の設定が気になって、どきどきしながら観に行った。
けれど、2人の恋模様は、言うならば「若気の至り」「青春の一過性のもの」として語られているようにわたしには感じられて、心がひどくヒリヒリしたのを覚えている。とぼとぼと渋谷の坂を下りながら、駅に向かった。
映画のコンセプトを図りきれなかった自分の読解力の問題だって、今ならわかるけど。
でも、こういう作品、少なくなかったと思う。
当時の作家さん達は、セクシャルマイノリティをがいることを伝えるために表現してくれていたのかもしれないけど。
「青春の一過性」のようにも読み取れるテクスト。
「行き止まり」を感じさせる閉塞感。
そういうものにたくさん出会った気がする。


若気の至り、なのだろうか。
青春時代の一過性のもの、なのだろうか。
そういうもんなんだろうか。この気持ちは。


そう思って、落ち込んだ経験がたくさんあるから、「私の元カノ」の一言だけで、既にあの頃の自分が救われたような気がした。



2.「見えないものを見せていく作品」



放送前に呟かれた脚本家のアサダアツシさんのXでのポストが、心に強く残っている。

レズビアンの方に見てほしい

どんなドラマなのだろう。
期待と、でもどう表現されるのかという不安もあって、それでも、いつでもアサダさんのポストに立ち返ると、期待の方が不安を払拭した。

インタビューで菅井さんが答えていた。
「見えないものを見せていく作品にしたいという話を伺った」という話。
クローゼットの中で生きる、クローゼットの中に心をしまっている、そんな「見えないもの」を、このドラマは、形にしてくれるんじゃないか。
菅井さんの意気込みを感じる言葉に、期待感を高めた。
だからこそ、放送前から心底思ったことがある。
「どうかハッピーエンドであ…ると、いいなぁ」


3.当たり前に「そこにいる」樹と冬雨


ドラマの放映が始まって、色々「すごいな」「細かいところまで気配りを感じるな」と思うことがたくさんあった。

そのひとつが、樹も冬雨も、「そこにいる社会人」の1人という感じが強いことだった。

以前は、マイノリティがマイノリティであるという特性が、ドラマや物語のアクセントになっているような描かれ方が多かったように感じる。
もしくは、例えばレズビアンだとしたら、樹か冬雨のどちらかがとてもボーイッシュに描かれたりしていたんじゃないかなと思う。それか、含みのある、影のある感じとか、ちょっと怪しげな感じとか。

ところが樹も冬雨も、そういう要素が良い意味であまり感じられない。
(樹の生い立ちなどから垣間見られる翳りは感じられる)

もちろん回を重ねて、2人が和解したあと、何となく樹のイケ感や冬雨の可愛さが際立つような感じはしているけど、なんていうのかなぁ…以前のそれとは全く異なる感じがする。なんだか、そこにいそうなんだよなあ2人とも。
取材や監修の力の大きさを感じる。2人の演技力も相まって。

まるで同じ職場にいそうな2人(冬雨がパワハラ上司でいたら嫌だけど笑)が、社会人として働いたり、難題にぶつかってチームで協力し合ったりという姿が描かれることで、マイノリティだなんだ関係なく、「そこに存在している」感じが強くあって、単純に、すごく嬉しかった。

過去の日記にこんなこと書いてあった。

「わたしいるんだよって、いたんだよって、私は知ってほしい。それは傲慢なことなのだろうかね。不公平だって、いつも思ってしまう。悪い癖だな。」


4.性愛


このドラマで性愛的な部分も描かれていることに沸く人もいるんじゃないか、と思う。
少なくともわたしはそうだ。

かつてのこと。
信頼できる年長の方にカミングアウトしたあと、色々話していて「あれ?」と、何とも言えないもどかしさを感じたことがある。

「…わたしたちは、お茶飲み友達ではないので…」

ついついそう返答したら、相手が少し返答に困ってしまったことがあった。
イメージしにくかったんだと思う。
(その後「好きな人の温もりって、安心するもんね。」と返してくれたことは、そんな中でも最大限寄り添った返しだったと、今でも思ってる。)

性はグラデーションだから、それこそ性愛的な要素を持つも持たないも人それぞれだし、
そこに向かうエネルギーみたいなものも個人差があって当然だと思う。
ただ、私は、樹と冬雨がお互い思い合う上で愛し合うシーンがあって、純粋に嬉しかった。
「そこにそれがあって良いんだ」と思えることが、嬉しかった。
単純に「わあ!」と、思えることが嬉しかった。
テレビドラマでどこまで表現できるかの難しさもあったと思う中で、その部分を表現してくれたことは、私にとっては大きな意義があったと思っている。


5、気兼ねなく語れる場


毎週ドラマが放送された翌日、親愛なる仲間の皆さんと感想を喋る時間に参加させていただいている。
これは菅井さんを推し始めてから感じたことだけど、「好きなもの・こと」について好きなように語れる世界があることに、私はとっても元気をもらって生きている。
そんな語り合いの場の主題が、「チェイサーゲームW」だなんて。
レズビアンのドラマについて、笑ったり切なくなったりドキドキしながら、気兼ねなく語れる場があるなんて、と思うと、とてつもなく幸せな気持ちでいっぱいで。


大学時代もそうだったなあ。
守られた環境の中で、自由に自分のことを話せる場があった。
それより過去を振り返っても、人生のそれぞれのステージで、良き理解者がいてくれていることも奇跡的だなぁと、しみじみ思う。
温かい友達に囲まれて、なんて贅沢な時間だったんだろう。
社会人になって改めて、私は守られていたんだなぁとしみじみ感じていたからこそ、今こんな場があることが、やっぱりただただ嬉しい。
このドラマがあったからこそ、この場所のありがたみがより一層感じられた。
皆さんいつも本当にありがとうございます。


6、わたしのうごめく心の正体


ドラマが回を重ね、その世界にどっぷりと浸かる日々を過ごす中で、どうしても読み返したいと思うものが出てきた。
それは大学時代に書いた卒業論文だ。
テーマは「マイノリティと現代文学」
このテーマで卒論を書こうと決めたのは、当時のゼミの教授に背中を押されたことが大きかった。
卒論に書く、ということは、親の目にも触れるかもしれない。マイノリティを全面に押し出したテーマ研究なんて、おっかなくて仕方がなかった。


高校時代。
今なら話せるかも、大丈夫かも、わかってもらえるかも、という一縷の望みを抱いて母の前で自分のことを話したことがある。
浅はかだったなあ。
動揺した母に刃物を突き付けられて、押し倒されたわたしは泣きながらひたすらごめんなさいとただただ謝った。
母の気持ちも、もっと推し量るべきだった。年を重ね、母が亡くなって久しい今ならそう思える。
けど当時のわたしは、すっかり元気をを失った。
しかしながら、元々忘れっぽく、そして能天気なタイプだったので、半年もしたらまた気になる人などできて。改めて考えると、うーん、のんきだな。

話が脱線してしまった。
とにかく、マイノリティ、とりわけセクシュアルマイノリティについてのテーマ研究を、真剣に行ったのだった。
せっかくだから、自分の伝えたいことを残したいと思って。

「最後に何を書いたっけな…」
わたしは卒論の終章に、その、一番伝えたかったこと、残しておきたかった自分なりのメッセージを書き記したことを思い出した。
けれどそれがどんな内容だったのか、全然思い出せないのだ。(何せ忘れっぽいから)
ただ、そこに絶対、何かを書いたことは事実で。そこだけは強いこだわりを持ってしめくくったことは覚えている。
ドラマを見ていくうちに、20年前のわたしが未来に何を伝えたかったのか、どうしても知りたくなった。
それが、「チェイサーゲームW」の放送が決まった頃からうごめく心の正体を掴むヒントになるような気がしていた。
ところが肝心の卒論がどこにあるかすら思い出せない。(忘れっぽさ全開)

仕事帰り。少し離れたところにある叔母の家に立ち寄り、納戸に閉まってある荷物の山から卒業論文を発掘した。
たまらず近くのスーパーの駐車場に車を停め、最後の最後を読んだ。
そこにはこう記してあった。

「無限の深淵」を越え、少数派であるマイノリティが「基本的には同じ人間」であるマジョリティから差別されることなく、個人個人の関係性の中で「理解」が広まっていくこと、これは、物語の中に生きるマイノリティにも現実を生きるマイノリティにも共通した、切実な願いなのであろう。

自分の卒論より

(「無限の深淵」はわたしの言葉ではなく、最後に作品研究をした村上春樹の「海辺のカフカ」からの引用)


一息ついて、車を運転し始めたら、なぜだかだばだばと涙が止まらなかった。

20年前のわたしは、他の人たちと同じ人間であることを、そして、他の人たちと違いがあることを、「理解」してほしかったのだ。
切実にそれを欲していたのだ。
それはわがままなことかもしれないけれど。
それと同時に、20年前のわたしの周りにもたくさんあった「理解」へのありがたさを、未来へ残しておきたかったのだ。

「チェイサーゲームW」は、20年前のわたしが残念ながらうまく出会うことができなかった「理解」で溢れた物語なのだ。
その「理解」あるドラマについて、たくさんの親愛なる方々と感想を自由に語り合える未来が、20年前のわたしには待っていたんだ。
いつも能天気に生きているつもりだったけど、わたしはこんなにわかってもらいたかったのか。

歳を重ね、どうにもしかたない現実に直面し、近い未来待っている悲しいことを静かに待つ日々の中で、「いろんなこと、まぁもうしかたないや」と悟りを開いた気になっていた。
けど、全然違ったことに気付かされた。
だってこんなに、涙が止まらないのだもの。

私の求めていたものがあるドラマなのではないか、きっとそうに違いないという喜びが、安心が、私の心をずっと騒ぎ立てていたんだ。だから心がうごめいていたんだ。

あー、ありがたいよー。(突然語彙なし)


これからも、わたしはたくさん悩むだろう。
自分の素直な気持ちに気づいてしまったから、これからもたくさん、いろんなことを考えるだろう。
でも、そんな未来が、少し怖くなくなった。
20年という時間を超えて、救われる思いがあることを、チェイサーゲームWというドラマを通して体験したから。
本当に、この作品に出会えたことに、ただただ感謝しかない。

また物語は続く

あー、頑張って生きていこうー。(語彙力なし)


おわりに、 大好きな人からの言葉



第2話を視聴した後。
どうしてもドラマの感想を、当事者として伝えたい。
そんなこと勝手に伝えられても重荷かなと思いながらも、自分のわがままが出てしまった。
明け方に長めのメッセージを、菅井友香さんに送った。
夜中に手紙を書くもんじゃない、と、人生で何度も思ったのに学習しない奴である。ほんとやめとけよ!

その日の夕方。
返信が来た。

とてもびっくりした。「なんでなんで?!」と動揺もした。
どきどきしながら返信を開いた。
優しくて思いやりあふれる言葉たちを、何度も何度も読み返した。
大好きな人に、自分のことをわかってもらえたような気がして、涙が溢れた。
とっても、嬉しかった。

ここでもわたしは「わかってほしい」の塊だったんだな、と、書いていて気付かされる。
そして、それを優しく受け止めてくれたのだな。最愛の推しは。


御礼も送ったけど、ここでも改めて。
万感の思いを込めて。
ゆっかちゃん、本当に本当に、本当に、ありがとう。
ゆっかちゃんのおかげで、またわたしは救われたよ。
本当に、本当に、ありがとう。


これで、わたしの、なんともまとまらない自分語りばかりの感想記事はおしまいです。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
いつまで経っても綺麗にまとまらないから、もうこのまま投稿しちゃえ。

皆さんが幸せに日々の生活を歩める今でありますように。

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