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現代日本霊異記 四

 僕は注意深く意識を集中する(白い意識は、何も言わない。夢の中で意識を集中するなんてできるのかい、そんな皮肉もない。)
 その夢は、見慣れたトランプの絵札ではなかった。
 周りの景色が、映画館のスクリーンで、映画泥棒のあの追いかけっこのあとのように、ゆっくりと立ち上がる。
 凪の海面にゆっくりと現れた鯨の背中のようだ。なめらかに盛り上がり、暗い海面をしずかに大きく波立たせる。
 
 そこは、人混みの雑踏。
 僕は、ぼんやり立っていた。
 混み合う朝の電車のような人の多さ。
 今日は、日曜日なのだろうか。弱くなった日の傾きから、午後少し経ったくらいのように思う。
 休日の渋谷の繁華街って感じだ。あるいは、池袋でもいい。でも、銀座ではないなあ。
 前にも来たことがある気がするのに、いつものように思い出せない。
 デジャブの中、オドオドと歩き出す。
 ずっと病室で寝ていた僕は、久しぶりに見る人の多さに足元がふらつく。
 すれ違う女性に肩が当たりそうになる。高校生くらいだろうか、僕はよほど間抜けに見えるのだろう、十代の純粋な女性にありがちの怖れも遠慮も知らない厳しい視線に射られて、僕は凍り付く。
 謝るために慌てて頭を下げて、ぎこちなく体を揺らしながら歩く。
 痩せた僕の体は、風に揺らぐ柳のよう。のれんに腕押し、柳に風。柳の下にいるのは幽霊だっけ。
 そんなことを考えていると、またすれ違う人と体が当たりそうになった。
 何度目かわからないごめんなさいの頭を下げとき、後ろの方で高い悲鳴が聞こえた。
 振り返る。人の塊が、大きく広がるのが見えた。
 そこだけ何かが破裂したように、人混みの中心がポッカリと空いて、人のドーナツみたいに円ができる。
 蠢くように、円の半径がゆっくりと広がる。中心から外に向かってさらにドーナツの輪が油でこんがり揚げられるように大きくなる。
 人が押し出されて、輪が大きくなり、人と人の隙間が広がる。
 その隙間から、空白の円の中心が見えた。

 銀色にピカピカと光る。
 安物のネオン管の看板。
 でも、こんなに白い、強い光はネオンとは別だ。
 看板にしてはとても小さい。

 休日の明るい午後の日差しに迷い込んだ、場違いに強く白い透明な光。
 寝起きの子供のように不機嫌に煌めき、乾いた路面に反射している。
 逃げようとする人の流れと逆に、僕は、じっと目を凝らす。
 空白の円の中心に、男が見える。
 ピカピカと光る物体を右手に握っていた。
 さらに、だ。これはまずいなあ。
 だって、その人、上半身が裸姿だ。立っているのは、白い小太りの男。
 何かの条例違反だ、警察を呼ばなきゃ。
 白い小太りの男。
 僕の中で何かが閃いて、でもそれが何かわからない。
 掴み損ねて消えていく。
 男は、丸い大きな顔に太いゲジゲジ眉毛、その下の目が垂れ下がっていた。
 深酒が過ぎた二日酔いのように、目が血走って黄味がかっている。が、だ。なぜかとても健康的に見える。なぜだろう。生命力に溢れる二日酔いのようだって、そんな比喩を使ったら、絶対だれかに叱られる。
 そんなことを思いながら、その健康的な生命力の源を捜す。
 耳まで裂けた口を囲むような白く短いヒゲ。逆立つ茶色い髪の毛。額の両端に鹿のようなツノとその下にとんがった耳が、警戒するように立ち上がっている。
 男は、ゆっくりと体を揺らして周りを見まわす。なんだか、不思議なリズムでーこのバイブスは、きっと僕らが経験していないそれだー腰と肩を楽しそうに揺らしている。ときどき、けいれんするように頭を振る。
 まずい、ますますヤバい。
 僕は、周りを見回す。でも、逃げようとする人はいても、男を捕まえようとする勇敢な警察官なんてひとりもいない。
 男の揺れる大きな頭にバランスを取るような、三頭身の突き出た白い腹がご機嫌に少し遅れて揺れる。間の抜けたコダマみたいだ。軽やかにステップを踏む、緑色のだぶっとした半パンから毛深い膝小僧が見える。
 男が後ろを向いたとき、背中に緑色のマントが見えた。いや、マントじゃない。毛深い筋肉で盛り上がっている肩から背中にかけて背負っているのは、緑色の風呂敷だ。いまどき、風呂敷だなんて。しかも、白いミミズのような模様が一面にはいっている。
 たしかこれは、唐草模様っていったっけ。
 唐草模様の風呂敷に小さく丸いものを包んでいる。なんだか太鼓のようだ。

 男がゆっくり一回転すると、また正面を向いた。
 夢の中で言葉を失った僕の白い意識は、存在をかき消すように黙っている。
 ぼくらは、一緒に目を凝らす。
 三白眼で周りを見る男の、短い右手に握られた銀色の光は、心臓の鼓動のようにビートを刻んでいる。
 そのたび、はち切れそうな風船みたいに、男の前腕が膨らむ。
 光っているのは短い太鼓のバチみたいだ。
 絶対に折れない、頑固なくらい固くて太いバチ。
 僕の半分ほどの背丈の男は、不機嫌そうに上目遣いで周りを見まわし、揺れて逃げ惑う人の間で、何かを捜している。
 その視線が、囲んだ人混み越しに僕と合った。
 僕は下半身が縮み上がり(男性には危険度を測るセンサーが、隠れたところに一箇所あるのだ。)、思わずズボンの上から(僕はなぜか病院の白衣ではなく、洗いざらしたジーンズにえり首の疲れた白いポロシャツを着ていた。)、そこに手を当てる。
 男の垂れた目がさらに垂れた。それに合わせるように、耳まで裂けた口が開いた。
 この男、僕を見て笑っている。
 男が何か小さく口の中でつぶやく。
 遠くの空でかすかにゴロゴロと重い台車を転がすような音がした。
 その音量を確かめるように男は耳を澄ました後、裂けた口があくびをするように大きく開く。赤い喉びこと大きな黄色い奥歯が覗く。
 口から飛び出すものに怖れて、僕は、ズボンに当てた手を握りしめた。
 しかし男は、何も言わずにゆっくり口を閉じた。
 垂れ目に涙が滲んでいる。
 思い出したように男は、周りに向かって突然、水平に右手を一度振った。
 遠くに聞こえた雷が今度は近くで聞こえて、地響きで足元が微かに揺れる。

 雷様。こいつは、雷様だ。