出亜江ノイト

小説が、束の間の、でも生きていくために大事な何かを与えてくれる、夢のようなものなら、も…

出亜江ノイト

小説が、束の間の、でも生きていくために大事な何かを与えてくれる、夢のようなものなら、もしあなたといくばくかでもそれを共有できれば、とても嬉しいです。 平日の、夜が移り変わる明け方に、毎日、更新します。

最近の記事

『痛みと悼み』 三十六

そう言って、若葉さんは、背中に当てた手で招くように軽く押すと、めぐむを教会の中に導き入れる。めぐむは、作用と反作用の力の微妙な差で進み出し教会に招き入れられる。  朝、まだ、人もいない教会の中は、10月中旬の朝の、高い天井までの冷たい空気に満ちている。ここは日が当たらない分、外より涼しいのだろうか。中に入って教会の涼しさと静かさが、染み込んでくるような気がする。  教会の奥の部屋から、スーツ姿の聡二さんが顔を出す。 「いらっしゃい。」 変わらない笑顔。手には茶話会のための紙皿

    • 『痛みと悼み』 三十五

      なぜだかわからなかった。見たとき、自分が、もう一人の自分を殺したような気がした。それを、さらにもう一人の自分が見ている。人に知られずに姿を消すことを考えていたこと、完璧に一人の中で完結すると思っていたことが失敗したと、そのとき、頭の中に衝撃のようなものが走った。完全犯罪を見破られ、先を越された。そして、自分の失敗を見せつけられた。 人間は、完全にいなくなることなんてできないんだ。  遺体は、痛みがひどくて、解剖の後、荼毘に付されました。死因は、おそらく栄養失調のようです。胃

      • 『痛みと悼み』 三十四

        めぐむが考えた、完璧にこの世から自分の形跡を消す方法。 急な消え方は完璧じゃない。その方法に従って、義務教育の延長のレールに従って、最低限のことだけをして、目立たないようにそろそろと進む高校生活。ドロップアウトすることは、めぐむの望まないことだった。完全犯罪、それは、本当に人知れず自分の身を消すこと、そのためには、このレールの終点までは辿り着かないといけない。呪文のように、その思いが何度も頭を駆け巡る。そして、その後の方法を考えて6年目の高校卒業の春、めぐむは、熟した果実が落

        • 『痛みと悼み』 三十三

          めぐむは、コンビニで買ってきた売れ残りの安いおにぎりを2つ、母に手渡す。母は、手を伸ばし、弱々しくそのおにぎりを掴む。しかし、小刻みに震える手がうまく三角形のおにぎりを掴めずに、滑り落ちて床に転がる。おにぎりは、弾むこともなく、空き缶に当たって、その間に隠れる。 消えたおにぎりを見ながら、いつからこんな生活になったんだろうと、めぐむは記憶を遡る。思い出せないほどのはるか昔。 そこにいたはずの父の思い出。いつからか苦い、思い出したくないものになっていた。めぐむは、家の中でもひと

        『痛みと悼み』 三十六

          『痛みと悼み』 三十二

          近くの札所になっている大きなお寺の境内に入る。観光バスも帰って行った夕暮れには、訪れる人ももういない。門を閉めない境内のベンチに座る。松の木を見ながら、横の池の何もいない水面を見つめる。日が斜めに暮れるころ立ち上がる。そのお寺の管理する裏手の墓地に行く。そこは、かつての生きていた人たちの今は静かに眠る場所。新しい墓石や古い墓石、低い墓標やオベリスクのような立派な石碑が並ぶ。この人たちは、生きているとき、母のように辛い生き方をしたのだろうか。死んだ年、そのときの年齢、オベリスク

          『痛みと悼み』 三十二

          『痛みと悼み』 三十一

          何かが途切れると、意識を失って倒れてしまう。恐怖のようなものが、めぐむを黒い手で包み込む。それは、またあの闇の中に戻ることへの恐怖。 めぐむの頭の中を黒いカラスの群れがぐるぐると巡る。 逃れるように辿り着いた軽トラックの白い車体に触れた。 溺れる人が浮き輪にすがるようにドアを開けるとシートに滑り込んで体を横たえる。 全ての力を使い果たしたようにぐったりとする。動けず、荒い息が静まるまでじっと目を瞑って俯く。自分の鼓動が耳の奥に聞こえる。 その音の鋭さがはるか遠くに消える予感が

          『痛みと悼み』 三十一

          『痛みと悼み』 三十

          あの家も、もう取り壊されているかもしれない。取り壊されて、分筆されて、小さな家がいくつも建って、あの家族の思い出は、跡形もなくなる。残されたのは、あのときに聡二さんが取りにきた、檀一雄全集の第6巻だけだ。その本は、かつての絶対的な神官に仕え続けた母が、一人寂しく暗がりのなかで、舟が頼る灯台のあかりのように手にしてきた本。そんな母がいて祖父が守ろうとした家は、今、無くなった。見事で完全な復讐。多恵さんの寂しさが伝わってくるように、それが自分の母の姿に共鳴して、急にめぐむの頬が熱

          『痛みと悼み』 三十

          『痛みと悼み』 二十九

          「周りにもともと教会とかそういう環境があったんですか。」  遺品の中に、聖書やそれに類するものを見た覚えはなかった。むしろ、魂抜きをして空っぽになった仏壇があった。  「いいや、うちの実家は、バリバリの浄土宗だよ。クリスチャンじゃない。地元の古い大きなお寺の総代のようなこともやっていたくらいだから。」  「なのに、神学部に入ろうと思われた。」  聡二さんの激しさのテコは、何だろう。  「そのときは、どういう気持ちだったんだろうねえ。」  困ったように、また空を見上げる。そこに

          『痛みと悼み』 二十九

          『痛みと悼み』 二十八

          聡二さんは笑う。家族との葛藤を暗示するような複雑な照れ笑いのようにめぐむには見える。 「前来てくれたときに、込み入った話だから結論だけ言うと、すんなり神学部に進んだようなことを言ったよね。」 「込み入った話って、どんな話ですか。」 照れ笑いの後の、微妙な沈黙。そして、ため息が漏れるような言葉が続く。 「絶対的な権力者のようだった祖父が、老いに伴う病気になった。結局数年後には、亡くなってしまった。最後は自分が自分であることも失ってしまった。」 「それはお気の毒でした。」 「でも

          『痛みと悼み』 二十八

          『痛みと悼み』 二十七

          その思いを察したように、聡二さんがめぐむを見て、ニコリを笑う。  「こんな話、牧師の私がすることじゃあないんだけどね。」 打ち解けた仕草は、そう言われて聡二さんが牧師であったことをめぐむに思い出させる。 「母はね、本当は望む形で結ばれたい望む人がいた。でも、簡単にいうと、祖父にとても強く拒まれた。」  「好きな人と、結婚ができなかった。」  「簡単には言いがたいが、かなえられなかった望む形が、僕たちなんだ。」  めぐむの答えが詰まる。結婚を約束して、子供ができて、結婚できなか

          『痛みと悼み』 二十七

          『痛みと悼み』 二十六

          「その大事の意味を知りたいわけだ。」  めぐむの頭の中に、あの冨永多恵さんが残したメモが思い浮かぶ。  「すいません。立ち入ったことで。」  今度は、話を聞く聡二さんの方が、軽く頭をあげるとめぐむと同じ視線の車の先のさらに遠くを見やる。遠い思い出を確かめるようなその視線の先は、どんよりとした曇り空だった。めぐむも、黙ってじっと待っている。  「あの本の、檀一雄っていう人、聞いたことある。」  「すいません。私、あんまり小説とか読まなくて。」  「少し前の人でね。女

          『痛みと悼み』 二十六

          『痛みと悼み』 二十五

          茶話会の終わったお昼過ぎ、皆の話をめぐむは聞いていた。今日の説教のテーマの話−心の貧しい者は幸いであるという、聖書からの引用で、それらの者は幸いである、それは満たされうるからだと言っていた−に関して、輪の中のひとりの年老いた男性が、自分たちが聡二さんの教会に来るまでの人生の失敗を楽しそうに話していた。アルコールで周りに迷惑をかけることを繰り返し、生活が乱れて自暴自棄になって路上で生活していたとき、聡二さんがそれでもしつこいくらい諦めずに来てくれたこと、教会の名刺を置いて言った

          『痛みと悼み』 二十五

          『痛みと悼み』 二十四

          明るい日の下で一人腰に手を当てて微笑む、少しお腹の出たTシャツ姿の男性の古い写真を見て、お嬢さんは、先ほどの悲しみを吹っ切るように明るく言う。  「そうよ、だからお母さんのほうから猛アタックしたんだから。」  「うん、そう言ってたよね。」  母娘は見合って笑い、そして、またアルバムに目を落とす。  「あら、篤も写ってる。」  「あら、本当。」  男性とこの母の前に中腰になったこのお嬢さんとその左横に前を向いた神経質そうな小さな男の子が写っている。まだ小学生だろうか

          『痛みと悼み』 二十四

          『痛みと悼み』 二十三

          かつては、この家族の中でも修羅場のような出来事もあったんだろう、今は、静かに動かなくなった死者との思い出に、安心したようにくつろいで話す母娘が、かつて死者が生きていた部屋にいる。 この部屋も、めぐむたちが入ったときは、苦しみを壁や床に叩きつけたような状態だった。めぐむや菰田社長は、部屋に入った時に、久しぶりに、うーん、と声を上げる。それは、殴り書きのように、壁や床に撒かれた汚物と床に散乱するペットボトルや酒の紙パック、空き缶などに紛れて、一箇所だけ空いたスペースに、大きく黒い

          『痛みと悼み』 二十三

          『痛みと悼み』 二十二

          聡二さんの無念さの影が消えて、厳しい表情を敢えて緩めようと微笑む。でも微笑みに本当の心の影は消えていない、作り物の笑顔に見えて、この方らしくないと感じる。 「まあ、人はそれぞれどんな人も自分たちのことで精一杯なんだ。でも、僕たちは、できるなら、少しでも分け与えるものがあるなら、そうしたい。それがパンであるのか、パンのみに生きるにあらずの、心の問題なのか。」 「パンのみに生きるにあらず。」 どこかで聞いたことのある一文だと思いながら、めぐむは繰り返す。 「ふふ、だめだね

          『痛みと悼み』 二十二

          『痛みと痛み』 二十一

          その日のミサと茶話会で、めぐむは、初めて会う種類の人たちばかりと出会った。自分にとって、人に見られてはいけない重い荷物のような母の気配を、周りの人たちに悟られないように隠して生きてきた過去に、友達と呼べるような存在はいなかった。今の仕事を始めて、人との距離も依頼者と請け負った会社という関係は、お互いに仕事の範囲内で必要なことにしか触れないという意味で、自分には重荷にならず適当だった。でも、この教会にきている人は、何か違う。めぐむが生きている仕事での関係の、その先から始まるもの

          『痛みと痛み』 二十一