信じることは戦うことでもある

 こんばんは。
 名前を持たない私です。

 今日も今日とて夜語りしていこうと思います。
 よろしくお願いします。といってもタイトル通りです笑

人を信じたくないと涙は語った

 この前のカウンセリングで、カウンセラーさんに
「私からあなたを切ることはないからね。そこは信じてほしい」
 と言われました。対峙しながら、正面に座っていることがきつくて身体をすこし斜めにして座っていました。それでも指は震えて、涙が滲んできます。安堵、でも何もありませんでした。恐怖が満ちていました。
(口ではいくらでも言える)
(その時が来たら、私から背を向けるように仕向けるだろう。プロだから、そういったこともできるはずだ)
 ティッシュを瞼に押し当て、それを涙でやんわりと湿らせながら、そう強く思っていました。

人は信じたいのに、信じることがこわい

 信じたいとは思っているんです。人を信頼してみたい。心から信用できる友だちがほしい。街を歩くカップルのように、いつか恋人がほしい。
 私は一人が好きで一人を選んで生きていくようになりました。一人であれば、誰かに傷つけられることも、誰かを傷つけてしまうことも少なくて済むからです。信じようとすればするほど、過去が足もとに絡みつき、前に一歩踏み出すことを拒みます。いいな、と思った異性はもれなく夢の中に出演してレ○プしてくるのです。まるで、希望を抱くな、と言われているみたいです。
 性的なふれあいをされていると理解した途端、性的な目で見られていると認識した瞬間、この身体はガタガタ震え始めます。強めのマナーモードで震える携帯電話を想像してください。そんなかんじです。
 友人や知人の付き合いだってやっとのことです。わたしは、言葉や、表の言葉に表現されなかった言葉であっても、否定に敏感なんです。敏感すぎて嫌になります。アドバイスも否定に感じてしまうことが多く、建設的な会話が出来ません。頭ではただのアドバイスだと理解しているのに、身体はちがいます。私の望まぬ反応が表に引きずり出されます。その身体に、理解している頭さえ引っ張られるのです。ヘルプを求めた結果「それでもココまで出来ているから大丈夫だよ」と励ましをもらったとします。これに見捨てられた、と私は感じてしまうのです。こんなの、全肯定してくれる人ではないと受け付けないと言っているのと何が変わらないのでしょうか。自分の言葉の敏感さ、傷つきやすさには辟易とします。

心の底から一人が好きなら良かったのに

 心の芯から一人でいることが好きだったなら、こんなに苦しむことだってなかったのではないかと思うのです。生半可に、中途半端に、染まり切れもしないまま、傷を叫び続ける自分が、私は嫌いでたまらないのです。

信じることは、これまですくわれなかった過去との戦いでもある

 信じたい、そう思えば思うほど、信じて裏切られた過去が対峙してきます。さまざまな形で道を阻みます。傷つくことばかりです、最初から信じようともしなかったのは私であったのに。

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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