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意味づけるということ

Safeology研究所の山川です。

前のnoteで谷内さんが日々わくわくすることの重要性に触れられていました。それを読んで、日常生活ではいろいろなことが自動化されてしまい、本当にそこで何が起こっているかを観察することが少なくなっているなーと気づかされました。同じ道でも、初めて通るときは、周囲にあるものに注意を向け「こんなものがあるんだ」とキョロキョロしていたのが、毎日通っていると、当たり前になり、周囲にあるものも気にとめず、気が付いたら目的地、なんてことが良くあるのではないでしょうか。

これはたぶん、日常生活を過ごす上での注意の節約になっているのだと思いますが、一方、当たり前になってくると、単調な生活だと感じてしまう場合もありそうです。

以前、ある公園でボーとしていたとき、近くにある木をアリの群れが登っていました。それを見ているうちに、ふと「アリのレース場」ということばが頭に浮かび、その視点で見てみると、アリが木の表面をいったりきたりしているのが、本当に競っているように見えてきた記憶があります。そして、それが面白くてしばらく眺めていました。

何が言いたいかというと、身の回りで起こっている事柄も、ちょっと視点や意味づけを変えると、結構面白くワクワクして眺めることができるかも、ということです。

普段の生活では「これはこう、あれはそう」というふうに、いつも起こることの意味づけはすでに自分の中でされていて、その視点で眺めていると、ワクワクもドキドキもしてきません。それが視点や意味づけを意図的に変えた途端、まったく新しい現象として自分の前に現れてくるかもしれない、という点です。

Safeoogy研究所では、谷内さんを中心に「コトのデザイン」という講座も開講していますが、その講座の中では、発想を広げるため、一旦意味を離れ、記号(ことば)の世界で遊び、再び意味の世界に戻ってくるということもしています。意味を世界を離れて、再び戻ってきた時には、まったく新しい意味の世界が広がっているということは、私にとっては新鮮な体験でした。

人間にとって意味づけるというのはまったく自然な行為ですが、ほとんど自動的にやっています。そこにすこし注意を払い、新しい意味づけをしてみる、さらには一旦意味の世界から離れてみる、といったことにより、目の前に広がっている当たり前の世界が、まったく当たり前でなくなるように立ち現れてくるのかもしれないな、などと妄想を膨らませています。

今年の投稿はこれで最後になると思います。皆様、良いお年をお迎えください。

文/山川 修(Safeology研究所 代表)


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