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運動と精神の関係性(初めての雑談)

      春の海  潮汐に見る  ひとごころ(笑)

 何時も全くウケていない小説(駄文)を披露しているので、たまにぐらいは雑談もいいかなと思い、書いてみる事にしました。
 しかし、すっかり温くなりましたね。外に出て身体を動かしているとまるで夏のような暑さを感じます。半袖の方も結構目につきますし、海岸線をウォーキングしていると、上半身裸の人も居ました。勿論男性ですけど(笑)
 という事で(どういう事やねんと)、身体を動かす事と精神の関係性は、どうなっているのかという話ですね。無論心理学的、医学的見識など一切持たない自分の、あくまでも心情的な話であって、軽い気持ちで読んで頂ければと思う所であります。

ウォーキングを始めた理由
 まずは言うまでもない運動不足解消からです。仕事以外では殆ど何もしない生活が続いていましたので、何かしないといけないと、思い立ったが吉日という衝動で始めました。
 以前は水泳もしていたのですが、膝を痛めてしまい、今では全くプールには通っていません。何れは水泳にも復帰したいと考えてはいます。
 そこでこのウォーキング。歩く事の大切さをこれほど痛感した経験はありませんでした。人間という生命は絶対に歩きます。一日の内、全く歩かないという事は無いに等しいと思います。ただ連続して、纏まった距離を歩くとなれば話は別で、それ即ちウォーキングという定義付けが出来るのではないかと思います。
 次に元々歩く事自体が好きだったという動機もあります。古い型の人間である自分には、人から笑われるような原始的思考も備わっていて、人間とは元来歩いて移動するものだ、という固定観念や残留思念を捨てる事がなかなか出来ません。
 かといって無論現代の文明を否定する訳でもなく、自分とてそれに肖って生きている一凡人に過ぎません。ただ歩く事を嫌う人が増えたような気がするのも事実で、そんな社会に対する抗いが自分の背中を押してくれているような気もしないではありません。
 もう一つの理由としては、十年以上前の法事の折での出来事からです。
 墓の前に着いた親戚一同は、一緒に出発し、車で後を追っていた筈の坊さんの到着が遅れていた事を心配していました。約10分ほど遅れて姿を現したその坊さんは歩いていました。結構大きな霊園であったので、更に皆は愕き、話しを訊いてみた所、
「すいません、自分は道に迷った時は歩くようにしていますんで」
 と、神妙な、渋い表情で答える若い坊さんでした。
 親戚の中には、何を言ってるんだ、と内心嘲笑っていた人も居たかもしれません。でも莫迦正直な自分は感動しましたね。そういう人が言うとそれらしく聴こえるんですよね。恰も『人生に迷った時は歩くようにしています』と、言わんばかりの謙虚な風格を感じました。 

いざ始めてみると
 やっぱり良いですね。特に海を遠くに眺めながらのウォーキングは最高です。心が洗われるような清々しい感じがします。
 無数の星屑を鏤めたような海面の輝きは、大袈裟ながらも、そこに訪れる者全てを幸福へと誘(いざな)ってくれているように思えます。それほどまでに美しい風景が眼前に広がっています。
 海辺では自分と同じようにウォーキングやジョギングをする者や、ギターやウクレレ、バイオリンなどを演奏する者、魚釣りに興じる者に絵を描いている者、家族で遊んでいる姿など、様々な人間と自然が一体となった、自由かつ屈託のない、天真爛漫な光景が漂っています。 
 これは街中ではなかなか見られないとも思います。当たり前といえば当たり前なのですが、それを実際に見ると心が覚える感動というのは、言葉では言い尽くせない純粋な心の色を表し、浜辺に横たわるゴミでさえも画になって見えて来ます。正に美が醜を飲み込んだといっても過言ではないでしょう。
 何時も折り返し地点で10分ほど休憩します。腰を下ろして眺める遥か彼方に佇む水平線の、真っ直ぐな心意気は自分の心まで真っ直ぐにさせてくれ、尚更狷介になってしまう懸念を和らげてくれるように吹きつける優しい風と濃緑の稜線。
 水平線の直線に対する風や山、人の行き交う様、砂浜の僅かな起伏、それら曲線美は絶妙のバランス感覚を以て穏やかで和やかな雰囲気を齎してくれます。
 そこにまで、拘りの強い己が性格を露呈する必要などは一切ありません。寧ろその情景に同化し、融合を願う事で、新たなる人生の道が切り開けてくるような気がします。
 たまには人に話しかける事もあります。だいたいの人は戸惑う事なく相手をしてくれます。この前は1時間以上も話し込んでしまい、もう少しで仕事に遅れる所でした(笑)
 他愛もない話とはいえ、そこには街中ではまず無いであろう心での会話がありました。これも不思議で奇妙な事ですね。海や山で出会う方々は何故そんなに優しいのでしょう。こっちが恐縮してしまうほどです。
 離れ難い景色に別れを告げる贅沢な憂愁感は余計ながらも、それも一興これも一興で、決して卑屈なものでもありません。

運動と精神の関係性
 そこで本題のこのテーマですね。これこそ今更言うまでもない事で、結論としては開放感に依って受け得る、余計な自我の捨て去り方、といった所でしょうかね。
 開放感というのは身体と精神両方に、同時に作用する感覚であり、それを分けて論ずるのでは意味が無いとも思われます。正に身心一如の原理的な法則ですよね。
 前述したように仕事以外ではほぼほぼ部屋に引き籠っている自分ですが、こうしてウォーキングする事に依って少なくとも身体と精神は解き放たれ、たとえ一時的にでも無我の境地を味わう事が出来ます。それは取りも直さず新しい、或は本来の自分というものを見出す事にも繋がり、積極や消極、楽観や悲観という二元論を二極一対のものと見做し、そこから生まれる理屈抜きの心根が放つ光はあくまでも明るく鮮やかで、一切の穢れを知りません。
 然るに光というものは輝いてこその光であり、曇っていては光る道理もないという当たり前の話です。
 相変わらず硬い文章かもしれませんが、噛み砕いて言うならば、動いてさえいれば、陰に籠る事は無いという簡単な話ですね。
 身体と精神の涵養とでも言いますか。身体は精神を育み、精神は身体の後ろ盾になっている。無論その逆も然りで、切っても切り離せない関係系の許に成り立っている、正に有形無形の関係に似たりと。
 これからもめげる事なく続けて行きたいと思います。

 では皆様、良い週末を^^




 





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