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合理的な人生

人間社会は発狂しないことを前提に構築されている。言い換えれば、全ての人間が理性的に動くことを前提としている。
ただし、時には発狂する者がいる。つまみ食いし、寝ぶっちをし、金を横領し、美女と不倫をし、公共の場で「東大医学部は頭悪い」と叫ぶのだ。当然そのような者は激しいバッシングに合う。当然の報いだと。しかし彼らは欲求即ち感性に従っただけだ。食欲、睡眠欲、金銭欲、性欲、喜怒哀楽といった感性に。
いくら文明が高度化しても我々人類は所詮一哺乳類の生物である。感性を持っている。しかし理性に従わず感性に抗えない者は人間社会では生きていけない。

「合理的」という言葉がある。理性にかなっているという意味である。先述のように感性に抗えず他人に迷惑をかける行為はもっての他だし、人生も理性に従って生きるのが美徳・正義のはずだ。ではいったいどういう人生が「合理的」なのだろうか。

仮説1:生涯年収重視

より多く金を稼ぐ者が成功者であり、合理的であるという考え方だ。また一般に高収入の仕事は社会的地位も高い。社会的地位という点では学歴や家柄も大事である。
この考え方に乗っ取れば、資本家階級の両親→SAPIX→中高一貫難関校→東京一工早慶→商社、外資、コンサル→良家の美女と結婚→子供をSAPIX(2周目) あたりが幸せだろうか。医学部やロースクールに行って資格を取って働き、のちに開業をするのも生涯年収が高そうである。私のように土木や建築といった公共性が高く高収入が狙えない分野に足を突っ込んだ者は負け組だ。学生時代も103万の壁ギリギリまで稼ぐのが良い。就活で有利になるからインターンの方が良いかもしれないが。可処分所得を最大化したいのであれば結婚も論外である。自分の稼いだ金や自分の時間を妻や子供にかけるのは勿体無い。愛に合理性なんてないのだから。

仮説2:タイムパフォーマンス重視

生涯年収最大化と似たような考えだが、コストパフォーマンスよりタイムパフォーマンスを重視するのが合理的とする考え方である。最短時間で最大の成果を得るのである。この考え方に基づけば浪人留年など論外である。人生の回り道など無駄、ストレートでも遅いくらいで飛び級制度を活用して一刻も早く高い学位を得て社会に出るべきだという考えである。
タイムパフォーマンスという観点からすると娯楽の時間も無駄である。なんら生産性のないスポーツや音楽に興じて何になる。読書ならわかるが。食事の時間も基本的に勿体無い。あんなのサプリでいいだろ。旅行?論外だね。金と時間を使って疲労しに行くとか意味がわからないから。
そしてコロナ禍でオンライン化が進んだのはとても良いことだったよ。オンラインでもできるのに通勤や通学のために時間をかけるなんて無駄だからね。

仮説3:社会のレール重視

上の2つは極端であるが、とにかく社会のレールに乗るのが合理的だという考え方だ。東京一工早慶が全てじゃないにしろできるだけ偏差値の高いところに行くべき。大学受験の浪人は良いけど、院浪や就職浪人はレアケースだし良い大人が恥ずかしいからやめるべき。中卒や高卒よりも大学に行って22-23歳くらいまでは親の扶養下にいるべきだけど、博士課程とか行って20代後半まで親の脛をかじるのはやめるべき。結婚出産を10代でするのは性欲に負けた破廉恥な行為だけど、20代後半くらいではするべき。年収だけじゃなくてやりたいことで企業を選んでも良いけど、起業はハイリスクだからやめるべき。とかね。世の中の常識・王道とされているのだから、きっと合理的な最適解なんだろうね!

実際には仮説3が「合理的」なんだと思う。社会のレールに乗るのが合理的、それ以外は非合理。しかしここで2つの疑問が思い浮かぶ

疑問1:社会常識は本当に合理的か

2020-21年の自粛ムードを思い出してほしい。感染が拡大する中で自分だけが良ければと旅行や飲み会を行う奴は非国民だと。社会人や一家の大黒柱である者がそういうことを行うのは人間失格とまで言われていた。
当時は感染者を0にすることを最大目標として、社会活動を止めても感染による犠牲者を出さないことが合理的とされていた。自分だけが楽しむのは個人にとって最適だけど囚人のジレンマだから良くないよね、と。
しかし実際には社会活動を抑えたところで感染者は0にならなかった。あれだけ防疫体制を敷いていた台湾や中国ですら一日数万数百万単位で感染が拡大した。そして感染による犠牲者を減らす為に社会活動を止めて国内で数十兆の経済損失を出したことは誤りだったというのとが(過去最多の死者を出しながらも蔓延防止措置すら出さなかった第8波の史実から間接的に)示されたのだ。つまり社会の常識は全く合理的ではなかった。緊急事態宣言中だろうと感染リスクを計算して1/1000以下だからと旅行に出た自分は正しかったのである。自分が合理的であることでむしろ苦しめられた出来事だった。

疑問2:合理的な人生は幸せか

そもそも社会常識が合理的だと仮定しても、合理的な人生は幸せなのだろうか。確かに冒頭のように感性に抗えなくて他人に迷惑をかける人間は干される。しかし、他人に大きな迷惑をかけなくても感性ではなく理性に従うことが美徳・正義なのだろうか。
結局、人間とはいえ所詮一生物であり、感性に従った方が幸せなのではないだろうか。「社会のレール」ではなく「個人の感性」に従うということだ。それは暫し、非合理である。大学を出たのに別の大学に入り直す。難関大を出たのにアイドルになる。高収入の職を辞めて起業する。医者の彼氏を捨ててバンドマンの彼氏と結婚する。などなど。周囲から批判を受けるかもしれないが、所詮常識など「感性の集合体」でしかないのだから、「合理的」だと判断するのも感性なのだから、「自分自身の感性」に従って生きることこそが幸せなのではないだろうか。
根源的なことを考えると、「生存」はそもそも合理的なのだろうか。我々が生まれ、この世の中に存在していることは果たして合理的か。生物の生存意義を生殖行為による次世代へのバトンパスだと捉えたとしても、よくよく考えればそれも合理的意義があるのだろうか。

合理的な人生とは何か。幸せとは何か。そんなことを思考するのもよく考えれば非合理な行為だね。noteなんか書かずに、この時間を研究や就活、アルバイトに充てれば「合理的」だっただろうなあ。

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