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親と話をするタイミング


昨日急遽実家に帰る
父の赤ちゃんの時の写真を発見

昭和16年10月1日生まれなので
これはたぶん翌年昭和17年5月の端午の節句かとの推測

調べると昭和16年12月8日は日本が真珠湾攻撃を行った年でした。昭和17年もまだ日本が領土を拡大している戦地では勝利している時

カラーにするといろいろと鮮明になる。この写真から見てもカラーにする事で父の実家が裕福であり父が可愛がられ大切に育てられた様子が感じられる
敗戦な未来など思いもよらない時だったのかもしれない

帽子をかぶるこの写真
これは何歳だろうか?2歳?
昭和18年くらいか
小松家の長男坊として
大切に育てられたんだろうな
(まだ身なりも綺麗、
戦争の影はまだ見えない年か?)

この時、既に父親(私の祖父)は
歩兵17連隊の兵隊として戦地で
戦っている年。我が家に「歩兵17連隊」と書かれたアルバムがあった。Wikipediaで歩兵17連隊を調べる。かなり詳しい足取りがわかる。
昭和16年に北朝鮮にある当時日本の軍事都市にて徴収されるとあった
という事は父が生まれた年なので誕生を見ないで海を渡った確率が高い

父5歳か6歳か?


どちらが祖父らしい私に
似ている方、どちらだろうか、、


次のいとこと撮影している写真
父が、5歳だろうか、6歳だろうか、、、昭和21年か22年。
日本敗戦の翌年か、、。

父親(祖父)は舞鶴にて、、
昭和20年に死んだ
当時舞鶴は帰還、帰船を受け入れていた港町。南方の激戦地で戦い生き抜いて帰還したのに、仲間と喜びのあまり違法な怪しい酒を手にして、
急性アルコール中毒で亡くなったらしい。
子供(私の父)の顔も抱きしめる事も出来ずに。
そして残された家族は
戦没者の遺族に対する給付金すらも戦死者扱いではないから貰えず、、、。

母親(祖母)と父は
母1人子1人となった。
戦後食糧難の時代、
子供も育てる為には直ぐに再婚しなくてはならない現実もあったのだと思う。この再婚相手が私がずっと血が繋がっていると思っていた祖父義助さんなのだが。
私が23歳の時、儀助さんの葬式の時に全てを知らされた。だからそれまではこの写真の小松さんの存在は私は知らなかった。

(となりに写っている女の子は
父のいとこの方。舞鶴で亡くなった父親の弟の娘さん)

この写真
父の顔付きが険しい
父親(祖父)と会えると思っていたのに、、、
新しい父(儀助)を受け入れられずにいたのかな、、、、。

これは決して父から聞いた話ではない。母親から聞いた事や写真からみた推測なんだが
悔しかった、腹がたった
とはその当時の事を振り返ると言っていたみたい

推測というのも、もうほとんど話が出来ない状態の父親が、昨日6月16日そこにいました

昨日そうなんです
病院に寝込んでいた父親を見舞いに

話すのはキツそうだった
手紙を書いていったんだが
読めない状況

陽華と輝の前で
感謝の想いをこめた手紙を読んだ
これで最期かもと思いながら

「話をするタイミング」

もっといろいろと知りたい事が
あったのだが

私と父の間では
無理だったのかもな

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