見出し画像

藤 原 咲 歩 で す!

はじめまして!! 藤原咲歩です。

これから出会う誰かや、今お世話になっている誰かが読んでくれると考えて、ワクワクしながら、あまり開示していない、16歳の私の本音を綴っています。

 自己紹介

名前:藤原咲歩 Fujiwara Saho
(”色々な場所で花を咲かせ歩いていく” )
    下の名前凄くお気に入りです!!

肩書:岡山の高校生
   チット研究所 所長 
       (正式な利益発生後、個人事業主登録)

年齢:2008年生まれ 現在16歳

苦手なこと:きつい匂い、ありがとうを言わない人

趣味 (好きなこと):脳、バレエ、研究、格闘技、
                         ものづくり、カメラ

研究内容:①失語症患者と家族の雑談を実現
     ②言語障がい者と会話のメカニズム解明

直近の夢:学会発表したい
     岡山でマルシェ出店
     チットの特許を取得したい
     言語障がい×バーバル・ノンバーバル協奏会のイベントを開催したい(大阪か岡山?)

将来:2026年に法人登記
   ニューロリハビリを学びたい
   20万人以上にチットを届け、笑顔になってもらう

最近頑張ったこと ⬇️  各種SNSもこちらから⬇️

 なんで研究を始めたか

自宅ラボの1部
グルーガンと3Dプリンターは必需品です

先に書いておくと、別に真面目でもないし、頭が人よりキレる訳でもありません。これから書く小さなきっかけが重なり合って、今の私があります。

数年前、父が脳血管疾患で倒れてしまったことが大きなきっかけ。

当時、私は小学6年生。
父は後遺症で、失語症と全身麻痺を起こした。

私は凄くパパっ子だったので、何も話さなくて動けない、泣きたい時に側にいてくれない、話しかけても返事が無い、よく頑張ったねとも言ってくれない、そんな父の姿に、正直ずっとイライラしてた。

失語症を持つ前の父は、

「パパは話すのが上手いからな〜
全国のお客さんも皆友だちなんよ」

って笑いながら話してくれて、私は父が革の名刺入れを片手に、お客さんと超超チョウ笑顔で話す姿がかっこいいなって思ってたのに。

父が倒れてから2年くらいの間の私は、大好きだったバレエや塾も辞めないといけなくなって、家に夜遅くに帰ったり、深夜に家を抜け出したり、母に文句言ったりしてた。今考えると不良。

1番嫌だったのは…年頃の女の子達が、「親いらん」「家にいないで欲しい」 とか思春期あるあるの発言。些細な言葉1つ1つが私の心の傷をえぐった。

そんな時、学校という場所も好きになれず、バレエからも離れていた私は、中学の授業で、「身の回りにある問題は?解決する方法は?」こんな問いに直面した。

私の中で、真っ先に浮かんだ問題は”父と話せない”
書いてみたものの、誰にも見せたくなかったし、わかったフリしてに 「辛かったね」って言われるのも、大人に困った顔をされるのも、うんざりだった。

他学年の白衣のおじいちゃん先生が、
クシャクシャにした私の紙を取って
「辛かったね。これ、やろうよ。」

この人の「辛かったね」 は他の大人の1000倍くらい優しいトーンで、その一言に何故か重みがあり、私に絶望への同調以外の希望を見せてくれた。

そこからは、とにかく白衣のおじいちゃん先生とディスカッションを繰り返しながら、会話を可能にする為のツール開発を勧めた。

白衣先生は私が家で困っている事を誰よりも理解してくれて、放課後の理科室での先生との会話が凄く楽しかった。そこから、沢山挑戦のきっかけをくださって、研究も発表も大好きになった。

白衣のおじいちゃん先生が、声を掛けて下さらなかったら絶対に今の私はない。

パパがこうなった事は全然嬉しくないけど、きっかけをくれた事には本当に感謝している。それに、小さい時に沢山楽しい思い出を作ってくれたことに、これから恩返ししていきたい。

白衣のおじいちゃん先生、あの時の私に声をかけてくれてありがとう。

 私が実現させたい夢

私は言語障がいを持っている方と家族が、
雑談で笑顔になれる環境を実現させたい。

私そして家族は数年間、父との会話に悩み続けた。
脳の損傷のせいとはいえ、話す事が難しい父とどう向き合えばいいのか。

障がいで出来ないのに、言葉を押し付けて言わせるのは違う。でも、話さない事が続いてしまうと、言語機能や顎周りも衰えていってしまう。じゃあ、結局どう接すればいいのか、凄く悩んだ。

そして、この私が持つ夢とは、父が脳血管疾患発症して数年後、他界してしまった曾祖母の願いでもあった。曾祖母は優しくて、笑顔が素敵で、いつも沢山色んな話をしてくれた。

曾祖母が他界する前の私は、父との会話に悩み不良だったので、しょっちゅう家を抜け出し、父のいる祖母の家へ泊まっていた。(自宅はバリアフリーでは無いので、車椅子が通れる祖母の家)

その頃、明確なビジョンも無いし、研究すら始めてないが、私が「パパとはなしたい」「パパが返事してくれない」と悩みを打ち明けたとき、曾祖母はいつも頭を撫でながら聞いてくれ、こんなことを言っていた。

「さほちゃんが大きゅうなって、お勉強頑張って、
パパみたいな人をたすけたって。」
「大きいばあちゃんが変わってあげれたらいいのに。」

曾祖母が存命のうちに、私の研究や製品開発を見せてあげることは残念ながらできなかった。けど、私は曾祖母がどこかで見てくれていると信じている。

最初は”父の為に” から始めたものづくりや研究だが、
研究を続けて様々な困難と戦う方と会って、
29万という失語症患者の数を知って、
私の未知な世界へ足を踏み入れることへの挑戦心がくすぐられ、今では人生の大きな目標にもなっている。

どんな壁にぶち当たろうが思いと夢は誰にも負けない。

私はこれを必ず実現させる。
私の夢が叶うのは、凄く直近な気がする。
応援よろしくお願いいたします。

 みなさんへ

 お願いなんですが…
・元気でいてください
・家族と沢山喋ってください

脳卒中は誰にでも起こりうるし、将来どのタイミングで困難を抱える事になるかは誰にも分からないです。

だからこそ、日々の生活の中でほんの少し、自分の身体を気遣ってあげてほしいです。お酒や外食減らすとか、健康診断行ってみるとか、栄養バランス考えるとか小さいことでいいので、このnoteご覧頂いた方は頼みます。

親や兄弟と笑いあった記憶って割りとおぼえています。インターネットやスマホを片手に家族と話すのではなく、オフラインで家族と向き合って、沢山喋ってほしいです。

最後まで、ご覧いただきありがとうございました!!
夢がかなった時には、皆さんへ報告させてください!!

藤原咲歩

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?