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【連載小説】 淋病おばさん南の島へゆく|第2章「雲の旅」(1)

八雲満は大学を辞め、ソドムというゲイバーでバイトをはじめた。今年の初夏に、ソドムのマスターの親友である淋病おばさんに会い、その強烈な生き方に触れることで、社会に対してふてくされていた八雲も、まだ、捨てたものではないと感じはじめていた。


しばらくしたある夏の日、俺はマスターの手伝いで淋病おばさんの事務所に行った。なんでも、彼女は競馬で儲けたお金で、この街の一角に事務所を借り、レインボーという名前でコミュニティスペースを開いているらしい。その内情は、似た悩みを持つ人で集まろうという趣旨のもので、もちろん彼女自身は社会活動家ではないから思想めいたものでもないし、福祉的な仕事でもない。どちらかというと、福祉や人権擁護にあたる専門家に指示を仰がなければいけない立場なので、たとえば支援を必要としている方に対しては、何か行動を起こす前に必ずそういう人たちに連絡を入れるようにしている。先日も困っている人に対して、炊き出しなど、街の福祉団体に混ざって協働していたようだ。しかし、中には福祉的には困っていないが、存在的に困っている人もいるようで、彼女のようにぶっ飛んだ人や、ものすごく頭のいい人など、医療や福祉の手で掬い取ろうとしてもこぼれ落ちてしまう人がいて、彼女の出番となる。
「お天道さんがみてるから」
と、淋病おばさんの活動については、事務所に着くまでマスターがいろいろと状況を教えてくれた。少なくとも、今回呼び出されたのもその活動に何か関係あるのだろう。真夏のギラめく建物の白さをかい潜り、ようやく茹だるような日陰に入った。どうやら事務所に着いたようで、マスターがインターホンを鳴らすと、淋病おばさんが出迎えてくれた。
「あらヒロキ!遅かったわね」
「なんだよ」
「八公もきてる?」
ヒロキとはマスターのことだ。神戸浩紀。八公とは俺。八雲だから。淋病おばさんはそう俺たちを呼ぶ。
「いるよ」マスターが俺に目配せをし、マスターの肩越しに会釈をした。淋病おばさんにも本名があり、赤池美智子というらしい。しかし、淋病おばさん以外に呼ぶ気は俺にはしない。このスペースの代表でレインボーさんと呼ぶのもなんだか距離感あるし、やっぱり俺には淋病おばさんと言った方が親近感が湧くのだ。彼女の人となりを知る人は、皆淋病おばさんと呼んでいる気がする。俺は出会って間もないが、昔から知ってるような感覚があるからそう呼ぶ。淋病おばさんの笑顔は素敵だ。屈託のない笑顔をすると、目が三日月を横長にした形になってとてもキュートなのだ。そういう笑顔を見ていると、自分がたびたび卑屈めいた考えをすることがバカらしく思えてきた。
「きてきて」
そしてマスターと俺は応接室に通された。応接室には日本だけでないセクシャルマイノリティのお祭りやパレードの写真、いろんな自助会、ボランティア団体と淋病おばさんのショットが飾られていた。彼女の旅はいつ始まったかわからない。なぜ。このような場所にいて、なぜ。そのような活動をしているか。この笑顔は誰を救うのだろう。偽善なら弱音を吐くこともできる。しかしマスターの話を聞く限り、彼女の生きる糧として彼女の血肉になっていると思うと、自然発生的に彼女の本性に根ざしているのだろう。この旅は。たとえ偽善だとしても、眺めているだけでも心地よい偽善だと、俺のひねくれ根性はえらそぶった。何か手助けをしてくれる人がいると、なかなか自分が十全な存在じゃないように思ってしまう。そういうふくみもあるから、レインボーさんとは呼びたくなくなるのだろう。だから、淋病おばさんは愛らしくてちょうどいい。窓から差し込む光が夏のプリズムを弾けさせ、息つく暇もない昼下がりを知らせている。窓際にはソファーが置かれ、ふと目をやると、そこには一人の青年が座っていた。

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