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転換後の時代をどう呼ぶか?

今は時代の転換点のようです。新しい資本主義だとか、ポスト資本主義だとか、人によって言い方は違いますが、何か「今まで」の社会のあり方が変わり、「これから」のあり方が産まれてくる…
おそらく、そうなのでしょう。
ただ、それを「新しい」とか「ポスト」とかと言うのは、「今まででないもの」と言っているだけの事です。
「これからの時代」の特徴を捉えて、「平安時代」とか「鎌倉時代」みたいに呼んでいるわけではありません。
そこで、これからの時代、「転換後」の時代をどう呼ぶか?、それを「ミャオミャオ時代」と呼んだらいいんじゃないか、そう思ったわけです。

ニャンニャン神学とミャオミャオ時代

実は、僕は「ニャンニャン神学」と言うのをやっています。新しい時代を「ミャオミャオ時代」と呼ぼうと思った時、ニャンニャン神学とミャオミャオ時代、これはいい組み合わせじゃないかと思いました。
そのニャンニャン神学ですが、例えば、モーセの十戒のすぐ後に出てくる律法に「水溜を掘って蓋をしておかないで他人の牛やロバが落ちたら弁償」って言う規定があります。
これ、「社会」ってものを考える上でとっても重要なんじゃないかと思います。

大勢の集団である「社会」の維持に必要なこと

倉本圭造さんって方の新年のnoteに、「参加者が100人とか千人とか、百万人とか超えたらどうするの?」みたいな問題が出てきます。
この問題、この「水溜掘って蓋して置かなかったら弁償」って律法がなぜ必要かって話とつながってきます。
モーセは出エジプトに際して60万人を率いてきたと旧約聖書には書いてあります。60万人も移動したら、どこかに痕跡が残るはずですが、今のところ、考古学的な調査では、その痕跡は見つかっていないそうです。

(実際にはチグリス・ユーフラテス方面から移動してきた逃亡奴隷達が、建国したところへ一部、エジプト方面から逃げてきた人たちも加わり、その「エジプト組」の伝承が共有されたのかもと聖書学者の加藤隆さんは言っています。)

ここでは一応、旧約聖書のとおり、60万人モーセが率いてきたことにしておきます。だいたい、東京都豊島区の人口が25万人ぐらいなので、その倍以上の人数です。

出エジプト直後は、モーセ一人が座について、民を裁いていたとあります。
当時は農業社会なので、水溜に牛やロバが落ちると言うことは、今の交通事故なみに多発していた事でしょう。

すると、モーセ一人で全部を裁く状態とは、豊島区の倍以上の人口がいるのに、交通事故が起こっても交通係のオマワリさんも白バイの警官もいないで区長さんが一人で処理をしている状態と言うのに近いわけです。

ある時、与作が水溜を掘ったら、そこに田吾作の牛が落ちて死んでしまいました。田吾作は、モーセのところに飛び込んできて「モーセ様、隣の与作がな、水溜を掘って、蓋しとかんだったから、オラの牛が落ちて死んでしまったダ。モーセ様、与作になんか言ってケロ」
って言うようなことに「モーセ様」は朝から晩まで振り回されている状態なわけです。

ニャンニャン神学的自然状態=水溜事故やら交通事故やらが多発する状態の解消のために組織ときまりができた


ここで義父さんが登場して、十人の長、五十人の長、百人の長、千人の長を作るようにアドバイス、このアドバイスを受けて、「中間管理職」をモーセが置くようになったと旧約聖書には書かれています。
そして、ここが大事なのですが、例の「十戒」が啓示されるのは、民の長老たち=ここでできた「中間管理職」が招集されて会議が開かれた段階でなのです。
そして、この会議は、旧約聖書「初会議」です。族長時代のアブラハムの時は、アブラハムは配下の者に命じて云々と書かれていて、「会議」はやっていません。
少人数の人だけがいる段階では、親分が配下に命令していれば良くて「会議」をやる必要はないのです。

「60万人」もいる集団だと、リーダーであるモーセの下に「長老」だの「千人の長」だの「百人の長」だのがいて、その人達を集めて会議をやり、「律法」に従って運営する必要が出てくるわけです。

つまり、ホッブスは「自然状態」では、「万人の万人に対する闘争状態」となっていた。これを制御するため「国家」が産まれたとするわけですが、

ニャンニャン神学的には、「自然状態」って言うのは、水溜事故やら交通事故やらが多発する状態で、これを制御するためには、律法とか交通規則が必要になってくる、また、律法とか交通規則・・・「きまり」に従って社会を運営するためには「組織」が必要だと言う事なわけです。

日本的特色を生み出した?稲作の受容過程

さて、日本の場合もいろいろな「きまり」や「組織」があって社会が運営されています。
そして、日本の場合、この「きまり」や「組織」には日本的特色があると思います。
この日本的特色は、日本が「それなりに」大きい国だから産まれてきているのではないかと思います。
弥生時代の稲作伝播は、途中、「停滞」する時もあったようです。
この「停滞」期間は、その地域が稲作を受け入れるために「地域的合意」を作るための時間だったようです。
つまり、稲作みたいなことをする場合、地域の中で自分ひとりだけ稲作する、他の人は、これまで通り縄文式に生きてればいいじゃんと言うわけにはいかなかったようです。
稲作には田植えみたいな協働作業があり、狩猟や採集経済での「お祭り」と稲作のための「お祭り」も違う…

今まで通りでいいじゃんって意見もあったかもしれない、しかし、いや、ウチの村も人口が増えてきたし、昔より寒くなって、魚も採れなくなってきている(縄文・弥生の転換期には日本列島は寒冷化してきたのだそうです)、ここは一つ、稲作ってヤツを受け入れて…

いや、だけど、お祭りどーすんだ?、みんなで漁に出る前の儀式と田植えの前の儀式は違うんだろ?

みたいな事が各地域ごとに議論され、そして、じゃあ、みんな、今度から「稲作するからな」
ってなって、稲作の受容がなされていった…

そういうことだったと思います。

「地域ボス」を全面排除して天下統一ができるか?

さて、こう言う風にして各地で稲作の受容が進んでいく過程は、地域ごとの特色が産まれてきた過程だとも言えるかもしれません。
地域ごとに合意形成をして、「オレの村は、こういう風にやるんだ」と言う「しきたり」が産まれ、そのしきたりに沿った文化ができてくる・・・
こういう「オレの村」がたくさん集まって、「日本」と言う集合体=国になろうとする時、何が起きるでしょうか?
日本書紀で、景行天皇が中国・九州方面に出向くと、おそらく、今の大分県あたりにいたと思われる神夏磯姫さんと言う人が非常に面白い事を言っています。
「今従おうと思ってたところでした。ところで自分は従うけど、従わない人もいます。彼らは人民から掠め取っています。ただ、兵は動かさないで下さい。」
このセリフから読み取れるのは、地域の中に「神夏磯姫さん派」と「反神夏磯姫さん派」がいると言う事です。
そして、神夏磯姫さん派はヤマトの力を借りて、反神夏磯姫さん派をやっつけようとしているわけです。
ただ、その際、「兵を動かすな」、つまり、あまり手荒なことはしないでほしいと言っているわけです。
結局、この時、ヤマト側は、贈り物をするからと言って、反神夏磯姫さん派の頭目たちを集めて一網打尽にするなど、「非戦闘的実力行使」を行っています。「戦闘行動」はただ一度だけしかやっていません。
さっきの旧約聖書の出エジプト同様、これが史実かどうかは怪しいかもしれません。
ただ、この神夏磯姫さん物語は、日本の地域と中央の関係を考える上でけっこう重要な点を物語っているように思います。
既に「特色のある地域」が形成され、その地域にはその地域の頭目達がいる場合、中央側が、それを全面制圧するのは、けっこう難しい…
「中央側」が出来るのは、地域の頭目達の一部を「親中央派」として抱き込み、「反中央派」を排除していくこと、
その際、どうしても抵抗すると言うのなら、徹底的に「潰す」ことになるが、できるだけ「穏便に」済ませていくように配慮する…
現代でも、党中央が公認した候補者を県連側が嫌って分裂選挙とか、そういう中央と地方のゴタゴタがよく起きると思います。
この手の事と言うのは、日本が小さな村のような社会ではなくて、村がたくさん集まってできた「それなりに大きな国(中国とかアメリカとかロシアとかほどではないけれども…)」になっているために生じているのではないかと思うのです。

吉利支丹と沼地問題・・・近代的改革は貫徹されない

遠藤周作原作「沈黙」の映画の中でヨーロッパから来た吉利支丹伝道師が「普遍は世界中どこへ行っても普遍なのです。」と主張するのに対して、幕府の役人が「日本は沼地だ、どんな苗も育たない」と言うシーンが出てきます。
日本でなにか「新しい事」をしようとすると、「足を引っ張られたり」して、なかなかできない、その手の「沼地化」状態に辟易している人もいることでしょう。
ただ、どうやら、「沼地」をぶち壊そうとしたのは、吉利支丹禁教を言い出した豊臣秀吉さんである可能性が高いのです。
当時、領主がキリスト教を受け入れると領民の人たちもみんなキリスト教徒になっていました。
大名をどこへでも「改易」する権力を示そうとしていた秀吉さんにとって、こういう領主ー領民関係は邪魔でした。
先の神夏磯姫物語と比較してみると、秀吉さんは、「地域ごとのまとまり」より、中央の方が偉いんだと言おうとしていたのかもしれません。
ただ、吉利支丹禁教を言い出したものの、秀吉さんなり、その後の徳川幕府なりが、完全に「地域ごとのまとまり」を壊して、各地域の末端に至るまで直接支配を貫けたかと言うとどうもそれは違うようです。
秀吉さんの時代も四国の長宗我部氏、中国地方の毛利氏、九州の島津氏などは、それまでの領地を認められていました。
徳川の世になって、長宗我部氏は排除されますが、毛利氏や島津氏は領地を削られたものの、中国地方や九州地方から追い出されていません。
この過程と言うのを見ると、日本は沼地なんだと言っている吉利支丹禁教側(幕府や秀吉さん)の方が、領主ー領民関係の地域的まとまりを壊そうとし、「世界中、普遍は普遍なんだ」と言っている吉利支丹側が「領主ー領民関係」の地域的まとまりに依存している、
だから、禁教側の方が中央の意志が貫徹する「近代的改革」を進めているようにも見える・・・
しかし、その「近代的改革」は結局貫徹されず、良くも悪くも「地域的まとまり」は壊しきれない…
そういう状況が浮かんでくるわけです。

官僚主導は壊せたか?と言うと・・・

僕は環境計量士と言う公害測定の国家資格を持っています。
平たく言えば、ある排水なら排水があった場合、その排水が「基準」に合っているかどうか調べるのを「業務」としてやるのは、環境計量士が所属する計量証明機関だけができます。
(業務と言うのは継続・反復して行われることを言います。たまたま大学の化学の先生とかが住民に頼まれて水質検査をしたのは、継続・反復される行為でないので、業務に該当しません。)
さて、環境基本法によると、この基準は「国」が決めることになっています。実際には環境省が原案を作って「閣議」に提出すると、閣議に出席している「国務大臣」の人たちがサインして、「基準」として発効します。
そして、環境省はこの基準の原案を作るに当たって「中央環境審議会」の意見を聞かなければならないということも法律で決まっています。
こういう「審議会」は各省庁ごとにあり、その審議会には学識経験者・・・平たく言えば、学者や専門家が審議委員として任命されています。
ただ、各省庁ともその役所の方針に合った学者や専門家の人を集めることが多いでしょう。一応、方針に合わない学者の人も委員に入れておいて、反対派のご意見もお伺いしましたとすることはあるかもしれませんが…
こうして、各省庁の官僚が基準とか計画を作って、物事を動かしている・・・
これはおかしいじゃないか?役人は選挙で選ばれていない、選挙で選ばれた政治家が物事を決めるようにすべきだ・・・
こういう意見が出てきて、1980年代頃には例えば、時の大平正芳首相が「大平総理の政策研究会」と言うのを作りました。
それから、中曽根首相の時には、「臨時行政調査会」が作られ、行政改革が行われました。
一見、国民が選んだ国会議員が選出した首相が研究会を作って決める方が、各省庁の審議会で決めるより「民主的」に見えます。
少なくとも「議院内閣制」の建前には合っているかもしれません。
しかし、あれから40年以上経って、果たして「官僚主導」のあり方は壊せたのでしょうか?

どっちが「建前」に合っているかも難しい問題

実は各省庁が作る審議会は法律で、その審議会を作ることが決められています。そして、審議会で議論して、答申が出たら、その答申を尊重して、「基準」や「計画」を立案し、閣議で正式決定すると言うようなことも法律で決まっています。
こういうのを「法による委任」、つまり、方針を決めるのは立法府の仕事で、行政府は立法府が決めたことを執行することになっているのだけれども、
この件については、議会が役所に基準づくりや計画づくりや「委任」したから、行政側が決めたんだ…
と言う建前になっています。
他方、首相直属の研究会などは、こうした法律によって作られると言う「手続き」を踏んでいないことが多々あるようです。
だから、選挙=「民意」によっている首相が作った研究会で物事を決める方が、選挙によらないで役人になった人たちが決めるあり方より、議会制民主主義、議院内閣制の建前に沿っているとは単純に言えないのです。
そして、現実の国会答弁では、省庁の担当者の役人の人が出てきて答えたりしています。
秀吉さんや徳川幕府も「地域ごとのまとまり」を完全に壊せなかったように、現代の「内閣総理大臣」も「省庁ごとのまとまり」を完全に壊して、物事を進めるのは無理なようです。

「革命」で理想社会を作れるか?

維新でも革命でも、それはその人の趣味に合った言い方でいいと思います。ただ、そういう方法で「理想社会」を作れるかと言うと無理なんじゃないかと思うわけです。
そもそも、1960年代頃は、日本には「族議員」がいました。
各省庁ごとに「運輸族」とか「建設族」みたいな議員がいたわけです。
この「族議員」の人たちは、例えば運輸族議員は、運輸業界の人から献金をもらって、運輸業界に都合がいい制度を作る努力をするとかしていたわけです。
こういうのは、「近代的」じゃない、党首が族議員の意向に左右されずに采配をふるえるようにすべきだ…
ざっとこういう議論の末にできたのが「小選挙区制」です。
それ以前は、「中選挙区制」と言って、自民党から同じ選曲に二人以上出馬していました。
(定数4の選挙区だと、自民党2人、社会党1人が当選、残り2議席を共産党や公明党、民社党などの「小政党」が占めると言う感じです。)
もちろん、二人立候補した自民党議員が二人とも当選できる保証はなく、同じ自民党議員どうしが対立することもしばしば起きていました。
こうした中選挙区制では、党首の「公認権」は弱いものでした。
一人しか選ばれない小選挙区制では、公認されるかどうかは大問題となります。こうして党首の「公認権」は強いものとなりました。
今の党首、首相が「強い」力を持つ政治制度のあり方と言うのは、1960-1980年代頃から、官僚や族議員中心で政治が運営されるのはおかしい、もっと近代的なあり方を目指すべきだと言ってやってきたことの帰結なのです。
しかし、そうしてできたあり方が機能しているかと言うとどうも怪しいんじゃないかと言うのは、先にも述べた通りです。

途上国が豊かになった後、資本主義は機能するか?

アダム・スミスは「国富論」の中で、アメリカ大陸の先住民がヨーロッパ人と交易するようになって「価値」を生み出せるようになったと述べています。
先住民の人達は、食べ物を得るために狩猟をして、獲物の毛皮の一部を服に使っていました。しかし、多くの毛皮はただ捨てていたようです。
ヨーロッパに持っていくと高く売れることに目をつけたヨーロッパ人の商人が、毛皮と銃やお酒を交換することを思いつきました。
こうして、先住民の人達はそれまで手に入れていなかった銃やお酒を手に入れられたと言うのです。
しかし、先住民の人達は、それまで銃やお酒なしでも生活していたので、「資本主義=余計なお世話」と言う感じがしなくもないではありません。
さて、この毛皮貿易の話は、日本の近代化とも関係しています。毛皮貿易が盛んになるにつれ、露米会社と言うのが産まれ、北太平洋上を欧米の船舶が行き交うようになってきました。
この船舶の一部が日本近海にも現れるようになり、江戸時代後半頃から、「鎖国」を続けるのかどうかと言う議論が徐々に起きてきます。
結局、日本は開国し、明治維新となります。
中国の方は、日本にペリーがやってくるより前、交易を望むイギリスにアヘン戦争を仕掛けられます。
当時、イギリスは中国のお茶を欲しがっていました。お茶はイギリス人の生活に必要なものになっていった時代です。
中国側は、別にイギリス人が売るものがなくても困らない、実際、中英貿易はイギリス側の赤字だったようです。
イギリスは中国にアヘンを売りつけ、アヘンを取り締まる中国側にイチャモンをつけてアヘン戦争を起こして…
と言う顛末です。
第一次大戦の後ぐらいの事ですが、シュムペータと言う経済学者は、マルクスが言うみたいに、資本家が労働者を搾取していると言うより、資本主義国が植民地を搾取して、資本主義の富は成り立っている、植民地が豊かになって、資本のはけ口にならなくなったら、資本主義は行き詰まるんじゃないかと言うことを述べています。
途上国や新興国が豊かになってきた現代と言うのは、このシュムペータの予言に近い状態だと思われます。

行き詰まって変わるのだろうけれども・・・

縄文時代の後半ぐらいから、人口も増え、気候が寒冷化し、それまでの狩猟採集経済は「行き詰まり」を迎えるようになってきました。
そこへ稲作文化が到来し、日本は弥生時代・・・農耕経済へと移行していきます。
アメリカ大陸やアジアにヨーロッパ人が到来し、「資本主義」経済が及んでくる中、中国やせいぜいオランダとだけ貿易していれば良いと言う状態でなくなり、日本は、明治維新へと向かいました。
現在の「行き詰まり状況」もいずれは社会の変化につながっていくと思います。
世界の通貨準備高に占めるドルの比率は、21世紀初め70%以上でした。
今は50%を切っており、2025年、つまり来年には30%台に落ちると言われています。
アメリカ以外の国どうしの取引でドルが使われる状態が変わり、(既にSWIFT=国際間の銀行決済システムでは、人民元がユーロを抜いたとのことです。)、アメリカはドルを刷れば物が買えると言うことではなくなってくる・・・
日本はアメリカに工業製品を売る見返りに、アメリカの農産物を買う、そうすると、国内の農家が「ムクれる」から補助金を出す、日本農政の骨格が、これまでそういうものだったとすれば、それも変わらざる得ないでしょう。
既に、ニトリはアメリカ市場から撤退し、東南アジアに抽力するとの事。
日本の貿易相手の第一位もアメリカでなく、中国になっています。
農政に限らず、いろいろな政治・制度のあり方が変わっていくだろう、変わらざる得ない時期に来ていると思います。

「混沌からの秩序」が繰り返される?

「ミャオミャオ時代」と言う名称は日本書紀を読んでいて思いつきました。
日本書紀の冒頭は、淮南子と言う中国の道教系の文書の引用で始まっています。
「いにしえに天と地がまだ分かれていなかった頃、混沌とした中に、なにかの兆しがあった」
この兆しからやがて「クニノトコタチノミコト」が現れ、やがて、イザナギやイザナミが現れて、日本の国が出来ていくわけです。
道教の原典の一つ「莊子」は、混沌に物事を認識する「穴」を穿っていったら、混沌は死んでしまったと説きます。
しかし、物事は、いつまでも「混沌」と言うわけにはいかず、やはり、何かの形を目指していくものなのでしょう。
さて、日本書紀の冒頭に出てくる「兆し」は、原文では「牙」と言う漢字を当てています。
なぜ、兆しが牙なのか?よくわかりませんが、「牙」は口の中で飛び出して生えています。この牙に草冠をつけて「芽」になりますが、「芽」も地面から飛び出した存在です。
芽はやがて育って「苗」になってきます。
苗は中国語では「ミャオ」と読むようです。苗にケモノ偏をつけて「猫」ですが、猫はミャオミャオと鳴くからなんだそうです。
つまり、ミャオミャオ時代は、苗が次々出てくる時代なのです。

苗が次々出る状態が維持されれば、全体としての豊かさにつながる

「種まきびとが種をまいた。道端に落ちた種は、鳥がくわえていってしまった。石の上に落ちた種は、日が登ると焼けてしまった。茨の中に落ちた種は、当初は育っていたが、茨に邪魔されてダメになってしまった。しかし、良い地に落ちた種は育ち、30倍、60倍、90倍の実りを得た」
福音書の中でイエス・キリストはこう述べています。

このたとえ話について、マルコ福音書やルカ福音書は、次のような「教訓」を付け加えています。
道端に落ちた種とか、石の上に落ちた種とか、茨の中に落ちた種と言うのは、神様の言葉について、最初から聞こうとしなかったり、聞くけれどもすぐに忘れてしまったり、別に面白い事があるとそちらに言ってしまったり、何か壁にぶつかると辞めてしまう人のことだと言うのです。

そして、良い地に落ちて実を結ぶ種と言うのは、神様の言葉をしっかりと守ったり(マルコ)、最後まで耐え忍んだり(ルカ)する人なんだそうです。

(先にも持ち出した加藤隆さんによると、こういう教訓を付け加えているのはマルコやルカなどの福音書で、イエス・キリストが最初にこのたとえ話を語った時には、この手の「教訓」はなかった可能性があるそうです。)

ここで言う神様の言葉と言うのを「勉強」とか、「スポーツ」とか、「仕事」に置き換えてみると、やろうとしてもすぐにくじけてしまったり、別な面白いことがあるとそっちへ行ってしまったりする奴はダメ、きちんと戒めを守って、最後まで耐え抜く奴が実を結ぶんだ・・・
って事になります。

農業の世界でも似たようなことがあり、僕は「回遊層」と呼んでいる人達がいます。回遊層の人達は、最後まで農業研修をやり抜く、と言うより、アッチの田舎暮らし体験、コッチの農業ツアーと言うように、あちらこちらを巡っています。
農業以外にもアウトドア・スポーツだったり、食関係だったり、いろいろなことをするようです。

そして、そのうちに、田舎にお家を買ったりする人も出てきます。別に、最終的に何かをすると言うのでもなく、いろいろなことをやっている状態を続けている人もいます。

これはこれで悪いのかと言うと悪くないのです。
ただ、農業をやり抜いて、「何か」をし遂げる人もいます。

日本書紀で天と地が分かれる前の状態から、何かの兆しが出てきて、日本初(?)の神様になったクニノトコタチノミコトについて、平家物語は面白いことを言っています。存在はしているが、形はないんだそうです。

混沌から、ピョコっと出てきた芽、ただ、それがどんな植物になるのかはよくわからない、やがて、「形」がハッキリしてきて「苗(ミャオ)」になっていく、

そのまま育って実るものもあれば、他の関心や壁にぶつかるなどの要因で、「実らずに」終わるものもある…
そういう事なのかもしれません。

世間的には、戒めを守り、最後まで耐え忍んで、実ることが「正しい」と言われるかもしれません。
しかし、全部の種、全部の芽、全部の苗が実るような「理想状態」を追求すべきなのでしょうか?

与作が水溜に蓋をしないから、田吾作の牛が落ちた的なドタバタを繰り返している無数の与作と田吾作が社会を作っているわけです。
そして、与作は与作、田吾作は田吾作の「形」をなしていくのでしょう。
苗が次々出る状態が維持されているとしたら、それは豊かな社会なのだと思います。

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