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「ここが津軽と南部の境目〜野辺地で戦争がありました。」

青森県は、西の「津軽地方」と東の「南部地方」
2つの地域に分かれ、方言や文化などが大きく異なります
その境界はいったいどこでしょう

旧津軽藩領と旧南部藩領を分ける藩境が残されています

東津軽郡平内町と上北郡野辺地町の
国道4号沿い、ちょうど境目に
県指定史跡藩境塚、通称・四ツ森があります

この塚はなんと
江戸時代に、津軽藩と南部藩の境界に築かれたものです。

それぞれ津軽側、南部側に標柱が建てられ
お互いの領土をはっきり表しています

この地点より西側は津軽、東側は南部となるようです。

さて、野辺地戦争をご存知でしょうか

戦争といえば、大規模なものを想像してしまいすが、
野辺地戦争は1日の出来事

しかし、風化させてはいけない記憶の一つです

この戦争の原因は
旧幕府に代わり新しい政府の軍が争う
幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)のひとつの争い

新政府側についた弘前藩が、
旧幕府側についた盛岡藩にしかけた戦争で

結果から言うと盛岡藩が勝利しています

 もう少し詳しくみてみると

明治元年(1868)、9月22日から23日にかけ、

弘前藩と黒石藩の兵180人が
盛岡藩領の馬門(まかど)村に火を放ち、野辺地村を夜遅くに襲撃しました。

これを迎えたのが
八戸藩からの応援も入れた盛岡・八戸藩連合軍400名です
(弘前藩が攻めてくる恐れがあるとして7月16日に配置)

二つの軍は野辺地川の大橋付近で戦ったそうです

はじめ盛岡藩側は負けてたそうですが
持ち返して弘前藩の兵を狩場沢に退却させたそうです

1日のみの出来事でした

 盛岡藩側の損害は少なかったのに対し、
弘前藩側の死者は、数十名となっています
なぜ、弘前藩が戦争を起こしたかは、

一説には弘前藩の微妙な立場があったものとされています。

弘前藩の津軽家は初め、
元々は大浦と言って、
大浦為信(ためのぶ)のとき津軽地方を統一して
豊臣秀吉にも認められ,保証もされて
その後、津軽と名乗るようになっているのですが

弘前藩はその津軽家の初代為信の頃から
公家の藤原の近衛家の血を引いていて

しかも弘前藩最後の藩主
津軽 承昭(つがる つぐあきら)は
むこ養子で
九州の細川家の出身

さらに近衛家の六女と承昭が婚約中(継室:後添え)

しかも

この諍いの前
京都から津軽家に宛てて親書と、朝廷からの令書が届けられています

迷ったらしいですが
弘前藩は官軍につく事を決めたようです

東北地方と新潟の藩と
はじめは幕府側につくと同盟を結んでいたのに関わらず

途中になって新政府の官軍側に立場を変えた弘前藩

同盟側からしては裏切り者

官軍からは、まだ同盟側と通じスパイなのではないか?

と思われ

そこで、新政府の官軍側としての形を残したかった

そんな背景があったのだそうです

最初に少し触れましたが
そんな思い入れで残したのは敗戦という戦績
弘前藩はこの戦に敗れています。
野辺地戦争は官軍側唯一の敗戦なのだそうです。

藩の諸々の事情があったにせよ
痛ましい史実です。

青森県野辺地町。
県道243号線に面したところに、野辺地戦争戦死者の墓所があります。

平和な今を作ってくれた先祖に感謝です

街グルメ青森
記事編集/鈴木勇(グローバルキッチンサイゴン所属)

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