スズキイサム(サイゴン、わやわや店主)

青森に長く住むと良いところ、悪いところといろんな想いがありますが、郷土のことを知る事が…

スズキイサム(サイゴン、わやわや店主)

青森に長く住むと良いところ、悪いところといろんな想いがありますが、郷土のことを知る事が地域の貢献にもなるのかもしれないと思い青森の事を主に書いています。グローバルキッチンサイゴンというエスニックのお店の他、青森居酒屋わやわやなど経営してます。

最近の記事

蝦夷地と青森港、弘前そしてアイヌの話

かつて、北海道の厳しい気候の中で、 狩猟と採集の生活を送る人々が暮らしていました。 彼らは旧石器時代の約2万年前から 北海道に住み着き、その原始的な生活が数千年にわたって続きました。 アイヌ民族です 本州で紀元前3世紀頃まで成立したとされる農耕社会も 北海道では、その自然環境のため、発展しませんでした。 しかし、その環境の中で、アイヌは存在し 日本の中世にあたる、時期にアイヌの文化が形成されていきました。 時は鎌倉時代、室町時代、戦国時代へと移り この時代になると

    • 青森のなくなった川―水の歴史と失われた風景

      「青森市の旧称が善知鳥村である」という説は実際には誤解であり、史料や古地図からも善知鳥村の存在は証明されていないそう 実際の地名伝承によれば、青森の地名は蜆貝川河口部にあった小高い丘に由来し、新しい町の名前となってるそうです。 約110年間、善知鳥村と青森の関連性はなく、 また青森山も青森の発祥地とは無関係であることが判明している。 青森の誕生に関する伝承は正確な検証が必要であり、これまでの誤解が市民に広まってしまっているんだとか 私たちの故郷青森市は過去にはどんな

      • 青森町の誕生〜青森は防御地点としての役割も持っていた。

        津軽藩が、外ヶ浜地帯に 新たな町である“青森“の町づくりと“港”の建設を考えたのは、 十七世紀の初めの頃のこと 藩が出来、いろいろあった問題も落ち着いて 藩政の安定と領内の支配が軌道に乗り始めたそんな時期だったそうです。 1625年弘前藩2代藩主の津軽信枚(のぶひろ)の時 江戸幕府より廻船運行を許可され 弘前藩としても、これを契機 に青森港の建設だけでなく、外浜の開発に本格的に乗り出すことになったそうです。 信枚の妻が、徳川家康の養女 (満天姫)で、準親藩という立場

        • 古川、油川〜石江のはじまり江渡茂吉のお話

          柳川という川が流れてました。 その川は善知鳥神社の沼から流れ出て 沖舘川まで流れていき 柳川堰があった辺りを人は柳川と呼びました 美法は美能里とも書いて、 ミノル若しくはミノリと読んでいたように 美田が多く米が豊富にとれてた場所 現在ではTHREEとなって、元は中三デパート、 かつては新興劇場があった、そこが中心の辺り 千刈はから中央古川をいい 附近一帯は荒れた萢ながら 稲を千把も刈りとることが出来たことにちなんで 千刈と呼ばれたそうです。 古川村は田が多い農村でし

        蝦夷地と青森港、弘前そしてアイヌの話

          町維持に禁制のタバコ売る〜煙草の莨町のお話

          莨町(たばこまち)は多葉粉町あるいは多葉香町とも書くそうです。 そんな莨町は現在の青柳二丁目の一部 莨町が出来たのは、塩町と同様寛文四年の西暦1664年に町割されています。 昔の地図によると莨町より蜆貝町にわたつて、尻無川という川がありました。 長さ百五十間というと272.7m、中間の広さが十八間なので32.7mと記載あり、この莨町の附近の土地は極めて少なかったようです 1681年から1684年までの天和以前には 塩町は十四軒、 莨町はわずかに七軒とあるから町が出来

          町維持に禁制のタバコ売る〜煙草の莨町のお話

          カネ長タケダ、村上病院のはじまり〜博労町のお話

          博労町=ばくろうまちといいます。 昔から一大馬産地として発展した五戸町にもその中心部の一角に、 「博労町」と呼ばれる地区がありますが 青森市にも昔、馬にちなんだ町、博労町がありました。 博労とは、牛馬の売買や仲介を仕事とした人で、 「馬喰(ばくろう)」とも書くそうです。 青森市の博労町は現在の青柳二丁目あたり 博労町が設立したのは寛文四年、西暦にすると1664年というから ずいぶんと古くから青森にあった場所です。 博労町は始め馬町と言われ、後年、博喰町となり、

          カネ長タケダ、村上病院のはじまり〜博労町のお話

          一代で巨万の富を造り青森市の有力者となった〜大坂金助の話

          青森市は開港された港町ですがそれ以前からこの場所には 蜆貝村 善知鳥村の二つの漁村が存在してました。 蜆貝が町になり善知鳥村が安方町になって そこでは陸奥湾で獲れる海産物を青森町内や弘前方面に供 給していました。 安方町では鳴海、大柳、 蜆貝町には木輿(ボクヨ)と呼ばれた大きな網元がいたそうです。 そんな蜆貝町に弘化2年に大坂金助は生まれました。 金助の父は船で南方から帰航していたのですが、時化(しけ)のため青森を眼前にしながら荒天で船が破壊され、船とともに命を落として

          一代で巨万の富を造り青森市の有力者となった〜大坂金助の話

          花園町の幻の庭園〜青森の合浦公園を造った庭師・水原衛作

          水原衛作は、もとは柿崎衛作といい、津軽藩の庭園師でした。 訳があり水原姓を名乗り1857年(安政四年)技術を学ぶ為の修業に上京します。 彼は帰郷後、函館戦争に参加し戦功を建て 廃藩置県後の1876年(明治九年)まで函館に滞在 西洋人について庭石の材質・配置など庭石園法を学びます。 彼は、特に公共のための公園作りに対して興味を持って、 靑森へ移り住むようになってからは、 公園を作る候補地選びや資金集めなどに奔走したそうです。 そんな水原衛作が初めて計画したのが 現在の花

          花園町の幻の庭園〜青森の合浦公園を造った庭師・水原衛作

          狄村(えぞむら)〜外浜や平内にいたアイヌの人々

          奥内に妻の実家があるのですが むかうと その途中にはアイヌ由来の地名とされるところが多くあります。 先ずは 田沢 たざわ、タンネナイ ( 長い沢 )  夏井田 なついだ、ナッ・イ・コタン( 流れ〈川〉に沿う村 ) 瀬戸子  せとし セトウシュ・ナイ( 鳥の巣多き処 ) 奥内 おくない オク・オマプ・ナイ ( 機弓を置く沢 ) 前田  まえだ マツ・タ・ウシ・イ( ハマナスを取る沢 ) 内真部 うちまんぺ ウ・チ・イマニツ・ペッ ( 我等の魚焼串を取る川 ) 後潟 うしろ

          狄村(えぞむら)〜外浜や平内にいたアイヌの人々

          「大火事が多かった青森市のお話」

          街をはしる南北の道路が異常に広い 特に柳町通りって、すんごく広いと思います。 今日は青森と火災のお話 ここ数年青森市で大規模な大火事は記憶にないですが 実は青森市はめちゃくちゃ大火事が多い街でした。 青森市は 町並みが東西に伸びた形をしている海岸に沿って 強風が吹く、その地理的環境に加え 商業地域、住居地域、 そして工業地域もみんな一緒になっていたので 失火するとその火がすぐに他に移って大火になっていたそうです。 線路内の列車から飛び火して 大火になったこともあるそう

          「大火事が多かった青森市のお話」

          青森の遊郭、塩町、柳原遊廓の話

          元禄八年といえば江戸時代の1615年 青森町の奉行から塩町で芝居小屋と 洗濯女を抱えておくことが許されたと言います。 それは遊廓が許されたということでもありました。 そして青森に塩町遊郭が出来、賑わっていたのですが 明治五年(1872年)三月二五日 大風の日昼近いころ博労町、現座の青柳から火を発すると 火災は烈風にあおられて、見る見る拡大 塩町・葭町から堤町、茶屋町に飛火 消防はもちろん市民も必死に その火を食い止めようとしますが 475戸を焼失してようやく鎮火し

          青森の遊郭、塩町、柳原遊廓の話

          久須志神社はお寺だった。久須志神社と三上町のお話

          瀧内村というとピンときませんが 今の青森市になる前 青森市の大分部は滝内村でした。 滝内村は古川村、三内村、孫内村、沖館村、新田村、浪館村、岩渡村 が合併し発足したので、結構大きな村です。 ちなみに37.14 ㎢で、人口は2961人 そんな滝内村の中あった割と小さな三上町のお話です 三上町は大字古川字千刈の一部で 明治三十年青森市に合併された町で現在の久須志、千富の辺り (よく聞く大字ですがココで確認すると、合併した際の昔の名称が大字 村の下にあった単位が元になっ

          久須志神社はお寺だった。久須志神社と三上町のお話

          「雲谷のお話」 〜萱野高原の茶屋の長生きのお茶を考えた人

          八甲田山の手前にあって 青森市街地からよく見える三角形の山。 雲谷 雲谷の起源は 1631年 川越源右衛門さんが弘前藩に任されて 関白をはじめ、有力諸大名への献上品などなどの 馬を育てる牧場として利用された場所 ちなみに、この他にも弘前藩の 優良な馬を産出していたところが 津軽五牧と言って 津軽坂(鶴ヶ坂)、滝の沢・入内・枯木平・雲谷 この五箇所に弘前藩の牧場があったそうです 馬は弘前藩外交において重要な役割を果たしていたそうです。 なので戦前まで雲谷地区は

          「雲谷のお話」 〜萱野高原の茶屋の長生きのお茶を考えた人

          青森にもあった、狸小路〜巨大なシジミが採れた蜆貝町

          青森市の川と言ったら堤川ですが かつて堤川にかかる石森橋から渡ったところに 小さな砂州があったそうです。 そこにはエビス島と呼ばれ 蜆貝の漁師が船を停めていたそうです。 さらにそんなエビス島には 蜆貝町民が建てた神社もあったんだそうです。 そんな石森橋の西側は青柳 青柳といえばかつての塩町があり 結婚式場のモルトン迎賓館の場所には 映画館の歌舞伎座がありました。 この場所には寺山修二が 中学2年から高校卒業までの5年間を過ごしたというころでも知られています。 そん

          青森にもあった、狸小路〜巨大なシジミが採れた蜆貝町

          新町の真ん中に立ってた幻の銭湯

          昔、八甲通りと言う通りがなかった頃 戦後の復興計画によって立ち退きをしたため なくなってしまった銭湯が ちょうど八甲通りと新町通りの交差点から 海手の辺りにあったんだそうです。 今は、その跡地は八甲通りの道路の一部だそうで その名前を「白山湯」と言ったそうです。 青森の新町界隈では「成田の風呂屋」として親しまれていたそうです 白山湯の開業は大正初期 以前は市の中心として栄えた大町、米町辺りにあったのが移転 建物はと言うと 頭部に丸みをつけた唐破風の屋根とは違う ごく普通の

          新町の真ん中に立ってた幻の銭湯

          大正浪漫溢れた青森の新町通り〜浜町料亭街のお話

          安方に青森停車場が出来 新町通りの松木屋百貨店が出来た 遠い遠い昔のお話です。 松木屋というと 耳慣れた方は知っている、知ってる と思うかもしれませんが ココで登場してるのは私達の知らない松木屋です 実は松木屋は2度、新町に建てられていて この当時の松木屋というのは 初代の松木屋で新町の北側にあったそうです。 木造3階建て約380坪の百貨店は ルネッサンス調の白壁や展望室のドーム屋根で その風貌は優雅で気品にあふれたものでした。 大正時代というと解放や新しい時代へ

          大正浪漫溢れた青森の新町通り〜浜町料亭街のお話