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青森町の誕生〜青森は防御地点としての役割も持っていた。


津軽藩が、外ヶ浜地帯に
新たな町である“青森“の町づくりと“港”の建設を考えたのは、
十七世紀の初めの頃のこと
藩が出来、いろいろあった問題も落ち着いて

藩政の安定と領内の支配が軌道に乗り始めたそんな時期だったそうです。

1625年弘前藩2代藩主の津軽信枚(のぶひろ)の時

江戸幕府より廻船運行を許可され

弘前藩としても、これを契機 に青森港の建設だけでなく、外浜の開発に本格的に乗り出すことになったそうです。

信枚の妻が、徳川家康の養女 (満天姫)で、準親藩という立場から、幕府が北辺のおさえに、暗黙の便宜をはかった、そんな推測をする人もいるようです。

津軽藩が、現在は弘前、当時は高岡とよばれた台地に、壮大な弘前城と新しい町づくりに、岩木川、土淵川の流れを利用し、また長勝寺など多くの社寺を配し、城下を構成したように

青森の町割も防御地点としての役割も持っていました。
自然の地形とたくみに調和
しかも、糠部 (ぬかのぶ・南部)を意識した拠点としての役割をもっていたそうです。

すなわち、堤川は外濠として機能
堤川以西の平野部は広がって
港の取締所を海岸に置き、交易船の監視にあたることで安全な地勢となり
また、寺院も置き出城としても配置が考えられました。

しかしながら、港を開くと言っても簡単なことではありませんでした。

津軽信枚に青森の町づくりを命じられた家臣の森山弥七郎は

町づくりのほかに、外浜中の商人船を青森へ集中させ
高岡(当時の弘前の地名)の城下町と同様の特権を町人へ与え、
六斎市(一か月に六度開催する市) の開催を許可したそうです。

青森の町づくりは、藩が主導で行われ城下町の高岡と同様の特権を町人へ認めることで、町の建設をさらに促進しました。

さらに10年間の年貢並びに諸役を免除する特権を与えたそうです。

青森の町作りは、
大きく三段階で作られていったそうです。

第1期は、善知鳥宮を含んで本町などの青森湾に面した沿岸部の町が形成、コレが1624年〜44 (寛永期)

第2期は、塩町・莨町・博労町など堤川沿いの町が形成
コレは1658年〜68年(万治・寛文前期 )

そして、松前藩のひどい対応に抵抗するべく
日高アイヌが、立ち上がった蝦夷蜂起(えぞほうき)
別名シャクシャインの戦いをきっかけに
青森に御仮屋が建設されたのが第三期
コレが1669年(寛文九年)で
青森町における弘前藩の支配機構が1669年〜72年(寛文後期 )に整備されました。

この時期に作られた当時の町割りが、そのまま現在の街区に生かされているそうです。

それぞれ見てみると当時、外浜地帯には、すでに上方からの船が数多く到来していたことから、青森開港は当初より計画されていて、700軒ほどの町を建設する許可を幕府へ要請していたのだといいます。

幕府の許可が下りて、3年ほどを経過して安方町から堤町まで一応の建設がなされ、約1000軒ほどの町家が作られて、移住した者へは飯米が支給されたと記録にもあるそうです。

それまであった堤川畔の漁村である蜆貝と善知鳥村の間に浜町、本町(大町)、米町、安方の区画が設けられ住者に土地や建築資材が提供されました。さらに、10年間の免税措置なども行われました。

しかし、当時の津軽領内の人口は全体的にまだ少なく、商人などの商業活動がほとんどありませんでした。

商業地を発展させるためには職人や商人が必要であり、藩の重役や町の人々が手分けして旅を重ねて移住者を募集したと言われています。

津軽藩の経済は米と木材の輸出によって成り立っており、
それまでは十三湊や鰺ヶ沢、深浦などの港から北陸や大阪へ向かうルートが開かれていました。

このルートを手がかりにして交渉を進め
江州、加賀、越前、越後地方(現在の滋賀県、石川県、福井県、新潟県付近)の人々が北の新天地を求めて徐々に移住してきました。

こうして青森開港3年目には多くの家が建ち並び、やがて市も設けられて活気づいていきました。

冬の長い外ヶ浜の地において、海を主軸に町作りがなされて行きました。
特産のヒバなども重要な役割を果たしました。

しかし、青森の町と湊の成立は藩の力をもってしても青森町の発展は容易には進まなかったようです。

本町・米町・浜町を中核とした町の拡大がなされたものの、十七世紀後半に入ると商売に窮して町民が飢渇に及ぶという事態が目につき始めたそうです。

1667年(寛文8年)から68年にかけて、ある職種に特化した商売の許可を求める要望が寄せられました。

藩として無視できない状況で

要望のあった町々に煙草商売と塩商売、外ヶ浜での馬商売を許可をしました。

その結果、成立したのが、莫町、塩町、博労町でした。

このように、青森町の発展には、弘前藩が商売の特権を一部の町に認可しても、町全体の発展を促進させようとする意図があった事が窺い知れます。

そして1671年(寛文11年)、
外ヶ浜一帯のささえとして、御仮屋が正式に着工されます。

御仮屋は、弘前の本城が屋形といわれたのに対し、
藩主が遠出等で、宿泊する仮屋形の略称でしたが
実質としては城としての存在でした。

幕府へは名目的に一国一城という禁制のため、青森御仮屋として届け出したものでした。

雪どけの三月中旬、弘前から藩の家老、大道寺宇左衛門為久
が、初代の城代として派遣され、苦心して御仮屋の建設へと取組んだそうです。

弘前より雪が多い土地だけに、工事は急がれ、周囲に土塁や堀をめ
ぐらし、木々を植え、木棚でむすんだ城屋は、東西七十間半、
南北六十八間と言います。 多くの職人、庶民の努力が積みかさねられ、ようやく11月13日完成へとこぎつけ

大道寺城代は、そのまま港まち発展のため、治安維持や、融和に二年有余にわたり奔走。約2百坪の御殿も落成して、城代を替ったが、翌年春には、その生涯を終えたと伝えられます。

第二代城代として、受けついだ進藤庄兵衛正次は、新町へあたらしく市場を開く一方、御仮屋外郭の整備につとめ、用水路をかねた堀割を、要所に作設します。

柳町、桜町などにかつてあった進藤堰は、見事なもので、その業績は後々まで語りつがれたと言います。

諸国から、新しい将来をもとめ、名もなく、北の町づくりに励んだ人々。神官、僧侶はもとより、町頭、あるいは船頭、漁民など、いろいろな人々が街の建設に関わり青森が作られました。

御仮屋には建設以降には町奉行が置かれ、やがて幕末、廃藩置県へと転換、1871年(明治4年) 青森県が発足となって、県庁が御仮屋跡を利用し、御仮屋は、1882年(明治十五年)へ入り、とり壊されて洋風、木造二階建ての庁舎が竣工しました。戦災と都市計画で、この頃の面影をとどめるものは失われました。

現県庁舎東側の小さな庭に、記念の、御仮屋跡の碑がたてられています。


このように苦労してまで、元々、弘前藩が中世以来の有力な湊町であった油川を都市建設の中核に設定せず、善知鳥宮と堤浦を中心とした地域に青森建設した訳がありました。

その理由は、中世以来の特権を持っていた有力な商人層を排除し
て太平洋海運の発展に対応可能な近世的商人を育成し、外浜で新
たな開発の拠点となる近世都市を建設する必要に迫られてのこと
でした。

油川港と青森港の関係についていろいろ問題をはらみながらも経過したと言います。機会があればまとめたいと思います。

最後まで読んで頂きありがとうございました。
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引用・参考文献
記事参考 青森町盛衰記 肴倉 弥八
新青森市史通史3
青い森堤川の歴史

記事作成 鈴木勇(サイゴン、わやわや店主)








 





















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