見出し画像

新町の7人の侍-新町の基礎を作った商店主たち〜新町のお話


 現在の本町は江戸時代前期に出来た当時の青森の町の中心にあたる地域でした。

現在の本町にあたる地域は、北西から順に南に、新浜町、浜町、大町、米町、寺町とあり、寺町の東には、鍛治町・大工町と言ったそうです。

 かつては、この地域内に銀行の本店と主要支店が集まって
青森の主だった老舗の商店が営業してたそうです。

1908年、青森駅が安方口から新町口に移動すると
それまで安方の裏通り的な役割だった新町通りが
一躍街の主役的な通りになったと言います。

そんな新興の通りを横目に見ていたのが大町、米町の老舗商店街の店主たちでした。

そんなおり1910年に青森は大火に見舞われ、全市は一夜にして焦土と 化します。

そして、この大火が青森商人の明暗を分けて行くこととなります。

つまり商人として、先見の明を持っているか、それが試される出来事となります。

大町などの老舗の商店の人たちは駅が移動しただけでは

客の流れは変わりはしない、そんなことありえない。

と、コレまでの自分たちが営んできた元の場所、での再建を目指しました。

しかしながら、大勢の商店主の中でも
進歩的な考えを持って新町への進出を考えるべきだ、
という商店主も出てきます。

「成田書店」「川島津軽飴店」「三浦甘精堂」「北谷書店」「福士洋品店」「長谷川酒店」「堀内果実店」の大町から新町への移転したのは7つのお店です。

その当時、新町出店は必ずしも成功するとは思われず、全くの冒険と言った見方が大半だったことから、

進出 したお店を指して

「7人の侍」と呼んだ方もいたそうです。

そして、移転開店後
この7つのお店、各店は
それぞれ業績を伸ばし、
新町地区を
県内随一の商店街となる、その基礎をかためていきます。

全国的に人気の百貨店も出来て

その基礎も次第に出来てくると
新町の青森駅前
現在のミッドライフタワーマンションの建っていた辺りに

「博品館」という間口30間の大型みやげ物店ができ旅客の多く 賑わったたそうです。

そしてその後、博品館の近所、3、4軒隣辺りに対抗する様に

「青森勧工場」(博品館の3分の1ほどの大きさ)が出来て
お互い競うように営業するのですが。

博品館は、販売員の多くが県の役人がらみだったそうで
民衆からの支持も得られず開店後数年で閉店

青森勧工場は複数の商店が規約を作って
一つの建物の中で各々の商品を並べた瓶の共同の店舗でしたが

博品館の閉店すると勧工場も収益が落ち込み
共同していたお店も一つ又一つと次第に抜けて
最後残った三国洋品店に買収され、みくに屋洋品店として営業

その後この土地は、陸奥館支店、越中屋などなど持ち主を変えます。

平成12年、この土地に「アウガ」が建てられますが
その後平成29年2月末日に青森市役所の駅前庁舎が入り今に至ります。

そして、
太平洋戦争末期,青森市の中心街は米軍の攻撃目標の1つにされ,大空襲を受けて焼け野原となるも

闇市の時代を経て,1948年に富士屋デパートが新町に開業し,売 上を伸ばした。

51年に柳町の松木屋百貨店が鉄筋コンクリート3階建ての店舗を新町に新築して 移転

55年に富士屋デパートは倒産に追い込まれ,その跡地は青森銀行に変わります。

一方,松木屋百貨店は66年には鉄筋コンクリート4階建てに建て替えられ,新町商店街の核店舗となる とともに,県下最大の百貨店へと

1960年代に,カネ長武田百貨店が新町に出店(86年ダックシティカネ長武田、93年 に青森ビブレ,2005年にはさくら野百貨店に名称変更)。

こうして,新町通りには2つの百貨店ができ盛り上がり

新町商店街は「青森の顔」になって行ったのです。


今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
良いね、フォローして頂ければ励みになります。
何卒宜しくお願い致します

記事編集/鈴木勇

本記事は以下の書籍を参考、抜粋して作成しました。

青い森の叙事詩 新町秘ストリー 長谷敬生著

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?