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花園町の幻の庭園〜青森の合浦公園を造った庭師・水原衛作


水原衛作は、もとは柿崎衛作といい、津軽藩の庭園師でした。
訳があり水原姓を名乗り1857年(安政四年)技術を学ぶ為の修業に上京します。

彼は帰郷後、函館戦争に参加し戦功を建て
廃藩置県後の1876年(明治九年)まで函館に滞在

西洋人について庭石の材質・配置など庭石園法を学びます。

彼は、特に公共のための公園作りに対して興味を持って、
靑森へ移り住むようになってからは、
公園を作る候補地選びや資金集めなどに奔走したそうです。

そんな水原衛作が初めて計画したのが
現在の花園町に分農園を設置することでした。

分農園とは、今の合浦公園のような都市公園でなく
土地に恵まれない都会の人に
小園地を貸し、自ら野菜や草花を耕作させて、土に親しんでもらう、そして大自然に触れ、清らかな空気を吸うことによつて、自然に触れた人に健康になってもらう。というものだったそうです。

しかし、こういった考えは当時としては、まだまだ進んだ考え方だったそうです。

この分農園というのは1864年ドイツの医者シュレーベル博士が提案してヨーロッパで活用され成果をあげていたものですが、日本で取り入れられたのは大阪市で水原衛作が提案した約半世紀もあとのことだったのです。

そんな水原の分農園に関する地図が柿崎家に保存されていたそうで

水原の明治九年の設計地図を見ると、諏訪神社の裏手、堤川より東方、今の靑森放送局通りに至るまで一体の地域内に彼の計画した庭園が描かれていたそうです。

その地図には
入り口は諏訪神社横から入園
入ってすぐの辺りに料理、弁当、 菓子、お酒類等の店があって
その南に3.6mくらいの白い棚があり、
それから乗馬を練習する馬場を通ると
幅が約7.2mの長さ80m位の畑が20数本設けてあり
更に堤川寄りに作られた集会所を中心に、
庭園式に池と小山が配され、所々に休息所であるテントが設備されていて、畑の灌漑用水は堤川から水車で汲みあげるように設計されていました。

こんな進んだ市民農園は、明治9年当時
空地や田んぼばかりに住む青森町民には、その必要性が認められる事は無かったのです。



水原の計画は水泡に帰します。

さて、市民農園の計画を断念した水原ですが

彼は次に
波打(青森市合浦二丁目の一部)に現在もある黒松、通称“三誉(みよ)の松”を中心にして公園をつくることを計画しました。

ココが合浦公園の場所です。

水原がここを公園の場所に選んだ理由 は、風光明媚で水利がよいことに加え、「三誉の松」があったからでした。

今も合浦公園にある三誉の松ですが
当時もこの松は300年ほどの樹齢で

歴代の弘前藩主が地方巡検の際に、この松の下で酒宴を催し愛したと言われており、人目にもふれず、手入する者なく幾百年を過ごしてきた古樹の枯れ傷を見て水原は遺憾に思い、この松を中心に公園設置を計画したそうです。

そんな、水原の公園を作る計画が明治14年に認可され
公園創設の認可を受け、 造園に着手したのはよかったのですが、直ぐに水原は窮地に陥りました。

何故なら青森の人びとが公園創設事業に対して、とても冷たかったのです。

賛同者不足、そしてそれに伴なう資金難
みるみる造園費用が枯渇、公園創設事業は挫折しかかります。

困った末に水原は山田秀典県令(当時の知事)に訴え、さらになんとか数名の有志者たちを探し出し、やっとで事業を進めていくめどをつけたそうです

しかし、水原が創設認可を求めた公園出願地は、官有地と民有地から成り立っていて
旧奥州街道の官有地部分は無税でしたが
水原の所有する民有地は公園附属地の扱いを受け、税金を払わ
ねばならない。

このことが水原にとって大変な負担となっていきます。

ついに資金的に窮した彼の苦労は、語ることも出来ぬほどのものだったそうです。

水原本人だけではなく、彼の母も妻も朝早くから日が暮れるまで人夫とともに働き、造園に励んだものの、そこから賃金が得られるわけもなく、食べ物や飲み水にも困る状態

海の脇でご存知のように風の強い合浦、寒さと飢えで自分も妻も年老いた母も苦しんだあげく

水原はついには過労がたたって病に伏してしまいます。

そんな水原を見るに見かねた知人が、自費で病院に連れていき
診療をうけさせ、しばらくして良くなるも、すぐに造園に取り組むので再発

そんなことを繰り返して明治十八年四月
志なかばにして、全生涯を合浦公園の建設に捧げた
水原衛作は年44才のわかさで死んでしまいます。

彼の遺書に
生涯をともにした公園から、死んでも離れたくはない。
公園地内の西北角の小松に埋めて欲しい
もし叶わない場合には
南の方にある官有地に許可を得て、埋葬してくれるように懇願
戒名は、 山水園原衛庭作和樂業始石魂にして欲しい

とあつたが、彼の希望は一切、叶うことがありませんでした。

悲運にして倒れた兄の意思をつぎ、
水原の弟の柿崎巳十郎は弘前市から青森にやって来ます

これによって水原の描いた公園造園は継承されます。

巳十郎は造園に努力したそうです

巳十郎は兄のいなくなった後の荒廃しつつあった公園内を整備する造園作業に専念します。

しかし、事業の継続は困難な状況に陥ります。

やはり、賛同者不足と費用面で苦しめられたのです。

そのため明治23年9月
巳十郎は苦心の末、青森町に対し、
公園附属地の地租を払い続けるのは難しい状況を語り、
公園附属地を青森共有地に編入すると申し出たそうです。

この提案に青森町も県都としての、これからの青森の発展のため、公園の敷地拡大に賛成

明治28年、巳十郎は公園附属地を青森町に無代価で譲渡する契約を結びます。

その翌年には、公園の名称も従来の青森公園から合浦公園と改称され

衛作の描いた公園が青森町(市)の公園として転生し、利用され町で管理設備されていくことになっていったそうです。

その後、明治31年に市制施行した青森市は、合浦公園を整備・改修する計画を本格化

明治34年、招魂祭を実施するにはもっと広くした方が良いということで従来の公園地に海岸の接続地も追加

明治41年9月には、当時皇太子だった大正天皇が合浦公園を訪れることとなります。

皇太子が来るとなって、さらに合浦公園も整備が進み

合浦公園は市が発展するのと共にさらに拡大し、植えられた桜目当てに訪れる市民も増え青森市の公園として、認知され今に至っています。

花園町

水原の死後
市民農園計畫を知った町民は故人の努力、苦心を偲び
水原の作ろうとした庭園の名前をとって
彼が作ろうとした場所に花園町という名前をつけたそうです。

花園町の整理は昭和九年開始されたそうで

早くより花園町に米町増子煉瓦工場があったそうです。

工場の性格上原料の土が重要なので花園町に設けられたそうです。

着工当時は工場は閉鎖していたので、高台の土地を低地に運んで道路を通したといいます。

花園町は西側に堤川支流が流れ、度々の洪水氾濫があつたので、川ゴミが附近の田畑に押し流され積まれたのものですが、自然豊沃な土壌となってました。

そんな肥料いらずの土地では野菜は非常に成長が早く、よくみのるといわれました。

そんな花園町に昭和12年青森放送局が設置され、人家も増え昔の面影も薄れていく中で、花園という町名のみが水原の幻の庭園の存在を伝えています。

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記事作成参考 青森市町内盛衰記 肴倉弥八
一部抜粋  青森・東津軽の歴史 郷土出版社

記事作成  鈴木勇(サイゴン、わやわや店主)

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