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古川、油川〜石江のはじまり江渡茂吉のお話


柳川という川が流れてました。
その川は善知鳥神社の沼から流れ出て
沖舘川まで流れていき
柳川堰があった辺りを人は柳川と呼びました

美法は美能里とも書いて、

ミノル若しくはミノリと読んでいたように
美田が多く米が豊富にとれてた場所

現在ではTHREEとなって、元は中三デパート、
かつては新興劇場があった、そこが中心の辺り

千刈はから中央古川をいい
附近一帯は荒れた萢ながら
稲を千把も刈りとることが出来たことにちなんで
千刈と呼ばれたそうです。

古川村は田が多い農村でした。
しかしながら
明治初年まで
農家七軒しかなかったそうです

青森駅当時の青森停車場が現在地に設けられ、
駅付近に商店や民家が増加してかから様子も変わります。

それ以上にも
靑森町、新城村間の新道が明治3年開通したことで
古川は発展していきました。

それまでの弘前から青森へ至る昔の道路は、
浪岡、大釈迦を通り、
新城村へ至ると
岡町を経由して
さらに油川町に至つて青森に達する道順が一般的

青森港は
1624年(寛永元年)
江戸廻船の発着点として開港
外ヶ浜の中商船賣買は青森港でのみ行う規定がされます。

歴代藩主の青森開港の主旨にのっとり、
油川を閉鎖し青森の發展を図ったのですが、
永年の油川の活況は衰えることはなく
依然として
油川から米やその他の物資が積み出されていたのです。

油川港が閉されても繁栄した理由は
油川町が弘前から青森に至る
交通・産業のうえでの大切な地点。
いわゆる要所であり
なおかつ早くから発展、知名度があったからでした。

その勢いは明治の世まで続きますが

青森を発展させようするのには

油川の港を閉鎖させるよりも
油川を通らないでの直通の陸路建設を行なった方が
効果が大きいとして

明治三年八月より着手する

新城より青森に直通の道路を作る計画を発表されるのですが

当時の新城、青森間は実に寂しくて

一軒の家屋なく、その上全くの樹林もなく

冬の季節になると寒い風が猛烈に吹いて
吹雪の日には人も馬も凍死するくらいの厳しいルートであったので

この新城、青森の道路の間に新い村を作るべく、

移住を望む者がいれば、宅地、さらに田畑の開墾、及び
木を植える等なども少しの支障なく許可して

移住の後も、営業に関してのいろいろな商法なども優遇措置をとって

村が運営出来る見込が出来るまで税金は一切取らない

このように布令を明治三年十月に出されたそうですが

時は既に冬に入っていたので、誰も名乗り出るものいなかったそうです。

しかし、この時、
敢然と意を決し、

その募集に応じたのが

江渡茂吉でした

彼は当時、

靑森米町に住居、呉服商を営み、
家業も繁昌していたので、
家族や親類のものはもちろん反対、
知人だって、移転するなどやめた方が良いと
皆説得したそうです

しかし一度決意した茂吉の決心は鈍らなかったそうです。

江渡茂吉は家族親戚を説得、納得させて

青森米町の住居と「営業品の呉服」をすべて売り払い

石神村の岡部の地、
俗に二本松のある場所に宅地を建て移住したそうです。

江渡茂吉の率先して
移住したことを青森官所は褒め称えたといいます。

それにしても
特に風雪が厳しい土地

村が出来るまでは大変だったそうです。

明治四年の正月には
新城橋が竣工
その渡り初めのため
茂吉夫妻が式を終え家へ帰って見れば、
家屋の屋根は全部はぎ飛ばされていたそうです。

さすがの茂吉もこの時ばかりは、
天の無情を嘆いたと云います。

同じ月の下旬には、大風雪のため、
夜に凍死しようとした旅人を救い、
青森官所に危篤状態をつたえるなど
いろんな苦労があったそうです

そんな冬を過して春になって、
青森町などから4名が移住して来て開墾に従事

茂吉は4人の移住者の力を得て開墾地を広げていきました。

同年、正月、藩より特別詮議により、
茂吉の苗字をとつて、江渡村すべきという達しがあり、
これと同時に庄屋を命ぜられています。

それ以来も移住者も増加し、新開拓事業が順調に進みます。

明治8年、
新城村、石神村、油川村、青森より移住者が四十三軒あったと言います

その多くは茂吉の成功を聞きいてきた近隣の人が多かったそうです。

しかし、地租改正に合わせて、
明治8年の時、農家43軒あった江渡村に対して
将来独立自営すべき村となるべき資力が乏しい石神村と合併した方が良いと奨めがあったそうです

茂吉の長年の努力が水泡に帰するので、
江渡村が存続する願書を提出されたと言います。

コレに対して、
第1大区(当時の行政機構で府県の下に大区が置かれ ました)の長である笹森清俊は
茂吉の長年の苦心と努力を察し、合併論に意見書を添え、
従来の小字岡部を江波とすることとし、茂吉の功績を認め、
村名を石神村、江渡村の1字ずつ取って石江村と改め合併することとしたそうです。

1881年(明治14年)9月9日、明治天皇は弘前へ向かわれる途中に石江の江渡茂吉宅で休憩されています。

この際、茂吉は私費を投じ御小休所を新築

明治天皇は午前8時小休所に御着になられて、40分ほど御休み遊されたそうで、その際、明治天皇は茂吉の江渡村創始の功労を思召しされ御沙汰があったそうです。

その後、木柵をめぐらし碑を建て、江渡茂吉翁の光榮を記念したと伝えられています。

現在、中央市民センタ ー石江分館正面左手にある「明治天皇御休跡」碑は、これにちなんだ史跡です。

その後、直通道が出来整備されて古川地区は賑やかになって青森も大きく発達していきます。

最後まで読んで頂きありがとうございました。
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記事参考 青森町盛衰記 肴倉 弥八より作成

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