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カネ長タケダ、村上病院のはじまり〜博労町のお話

博労町=ばくろうまちといいます。

昔から一大馬産地として発展した五戸町にもその中心部の一角に、 「博労町」と呼ばれる地区がありますが

青森市にも昔、馬にちなんだ町、博労町がありました。

博労とは、牛馬の売買や仲介を仕事とした人で、
「馬喰(ばくろう)」とも書くそうです。

青森市の博労町は現在の青柳二丁目あたり

博労町が設立したのは寛文四年、西暦にすると1664年というから
ずいぶんと古くから青森にあった場所です。

博労町は始め馬町と言われ、後年、博喰町となり、 博労町の文字に
改められています。

城下町の町割の方法として、馬を取扱う馬町は町外れにあって、又
魚町は臭気の關係から町外れにあって、蜆貝町も博労町にも魚屋が住み魚市場を経営していたことは、博労町は当時の青森町の外れにあったので、町割の方式にかなった位置にあったことになります。

青森町の中心部は、今の本町で当時は大町といいましたが、その近隣に塩町、米町という商店街があって荷駄、いわゆる馬で運ばなければならない荷物が多く、その利用が多かつた關係から、馬喰町が近接して設けられたわけです。

馬喰町では寛文九年西暦1669年以降、度々馬市が開かれています。
そして外ヶ浜中の馬売買は馬喰町以外で取引してはいけないという特権が与えられたそうです。

津軽藩の牧場は雲谷と鶴ヶ坂とにあったのですが
青森はその中間に位する關係から、馬の取引は盛ん

それに、博労町は弘前に達する本街道にあります。

今から思うと意外なのですが
昔は新城、鶴ヶ坂を経由し浪岡へ達する道路より
筒井、横内、豆坂を経て浪岡へ達する道路が利用されていたのです。



その当時の人々は弘前からくる場合は堤町を通って博労町を経て米町、大町などの商店街に出る路を選んだといいます。

ゆえに博労町、米町は青森の商店街であつて、昔は必然的に繁昌した町だった訳です。

特に博労町は青森町の出入口という位置、
それに加えて町の東端に魚市場があり、朝になると青森町内の魚屋の買出しがやって来て、何時も賑やかだったと伝えられています。

そして博労町は人の出入も多く賑ったので、
「丸本」武田呉服店、「八兵」 平井呉服店、「室藤」 室津呉服店等
青森でも有名な呉服商の店が多かつたと言われています。

中でも「丸本」武田貞助商店は博労町の老舗でした。
そんな武田呉服店に五所川原町から養子になってきた傅二郎という人物、彼は仲々の手腕家で先の見える人でした。

鉄道が開通した後、それまで活況だった博労町の商いもパッとしなくなったので、大町にある「山しめ」木村商店が小樽へ引上げて行くと、その後を引受け「カネ長」 武田呉服店として支店を開設し財産をふやしたそうです。

その後親との間が円滑に行かず離縁となった。

しかしカネ長武田商店は益々繁昌し新町に支店を増設
のちに新町のカネ長デパートとして末長く市民に愛される店舗に成長していくわけです。

博労町は商店街として魚町として明治の中頃まで繁昌しましたが、青森の酒造業も発展していて1711年から1716年までの正徳年間には造酒屋が博労町に五軒もあったといいます。

今でこそ酒造りは西田酒造だけですが

開港後の80年ごろだと
酒造りの数は45軒、大町、米町に軒を並べていたようで
こんなに酒造りが開業した土地は全国でも珍しいようです。

昔から青森の人はお酒が大好きだったんでしょうね。
その後さらに61軒に増えたという記述もあり
原料の米は津軽米、水は蓮心寺、三光寺の井戸の水を使ったそうです。

ちなみに三光寺は青森製氷の貯水庫の前あたりにあったそうです

いずれも酒といっても濁り酒の程度
割と簡単に酒を作っていたのでしょうが
北陸の大山酒などが松前に伝わると
次第に見向きもされなくなっていったようです。

その後習うものがなかったわけでもないのですが
地理的な要因もあり大火が青森の街を何度も襲い
明治43年の大火でついに青森中心部に
一軒も酒を造るところはなくなってしまいます。

その後青森の酒屋が衰退してからは
味噌、醤油の製造家が増えた。

実業家として後に有名になった大坂金助も塩町の遊廓で女郎屋をして、財産ができてから博労町で酒造業を営んだ。

大坂金助の酒屋は明治四十三年の塩町の遊廓大火まで営業を続けた。
大火後質屋に転業し、この質屋で青森商業銀行や青湾貯蓄銀行の設立準備がなされた

経理は細川という初代大坂金助の目がねにかなった人だけあつて仲々腕のさえた人であったという。

そして、l博労町に有名な村上医院がありました。

医者の家といつてもよい程、親子が医者ぞろいで何人もの博士を出した名誉ある家柄だったそうです。

村上医院のはじまりは村上愛吉という人物で熊本藩の御殿医、すなわち大名に召しかかえられた医者でした

氣骨ある人と伝えられていて陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局の石黒忠篤軍医総監と合わず
五連隊配属を命ぜられ雪国の靑森に来たのは明治初年

その後、軍医として勤務するも、その生活は短く、その後、青森で開業します。

御殿医だったことで庶民には敷居が高く感じられたのか、医院はうまくいかず、青森を離れ、東郡今別で「三良堂」という病院を移住開業したが、ここでも思うようにいかず、苦しい生活が続いたそうです。

明治21年青森大町に移転 再度、青森の医療に尽力する決意を固めます。

彼の子は共一、不二、三一の三人の男子

頭のよい子ばかりで兄の共一は十八才で浦町桔梗学院の英語の教師となっているうちに、医師の開業の試験に合格し、軍医として五連隊に奉職、つまり公務につくことになりました。弟不二も開業医として試験に合格、軍医となりました。

兄、共一は昇進して少佐まで登り、後に學習院の校医にもとなったそうです。

五連隊に軍医としていた村上共一医師か不二医師か、どちらなのか今ではわからないのですが、今でも有名な遭難事故のあった八甲田雪中行軍での逸話が残されています。

明治三十五年の歩兵五連隊雪中行軍出発の際
当時の軍装、装備では八甲田山の酷寒、零下何度という寒さの雪中行軍には無理であることを村上医師は隊員の身を案じ忠言したのですが
大隊長山口少佐はこの忠告に耳を傾けることはありませんでした。

そして遂にあの悲劇ともいうべき惨事が起きてしまったと言われています。

当時の村上軍医は立腹しで行軍に加わらなかつたということです。

弟不二軍医も五連隊に配属になってから生活も安定、そのうちに三男三一も医者となり古川町に開業。

二男不二軍医が明治三十一年台湾征討軍に従軍
帰郷後は博勞町に開業、主に近在に顧客があつたそうです。

真面目な人で礼儀の正しい人であるが、若い苦しい時代を想起し、よく貧乏人を面倒見たといわれます。

不二医師の子に五男一女がありのちに子孫もこの地で医療を志した初代の愛吉の志を継ぎ、この青森市にて後の医療法人芙蓉会として発展していきます。


最後まで読んで頂きありがとうございました。
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記事参考 青森町盛衰記 肴倉 弥八より作成

記事作成 鈴木勇(サイゴン、わやわや店主)

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