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【箸休めコラム4】相談はしなくていい

人生で大事なことは、メンター的な人や、親友、に相談しがちじゃないだろうか?ここで言う相談というのは、親や配偶者に対する、礼儀的な事前報告や承認をもらうプロセスではない。本当の意味での相談だ。

転職、起業、大きい経営判断、結婚、などなど人生を左右しかねないイベントに対してだ。

僕で言えば、最初の会社に就職するまでは、基本誰にも相談せずに、自分で全てを決めていた。これがカッコいい事だと思っていたから。親からは失望されたり、泣かれたりしたけど、それがいいと思っていた。

しかし、所詮は子供の頃に起こりうる決断。大したことは無い。僕は会社を辞めて投資家の元に属し、雇われ経営者として、人生を始める事になるが、ここでは、本当の世の中の厳しさを思い知る。やる事なす事、失敗だらけだし、時には、とんでもない結果も招く。いつの間にか、自分より見識がありそうな人に対して、聞いて回る、みたいな事をするようになっていた。自分ではそれが世の言われる「謙虚さ」だとも思っていた。

そして、それは実は12年経った今でもダラダラと続いている事に愕然とする。

12年前よりは、12年の経験がつき、判断力は増したと思うが、「情報収集」という名の下の責任回避が癖になっているのじゃないか。ふと最近そんな事を思うようになった。

人に相談する事でのメリットは大きい。自分とは違う視点から無責任にその事について考えてもらえるので、思わぬ切り口が出てくる事もある。自分でやってしまってから気づいたのでは、命取りになるような想定外を未然に防ぐ事もできる。

確かに、駆け出しの頃はそれでもいい。だが駆け出しを終えてまでも補助輪をつけているのはいかがなものか、と恥ずかしくなってきたのだ。そして、もっとムズムズとしてきたのは、そこに存在するサラリーマン的な正しさだ。あれほど嫌っていた、報告、連絡、相談、の相談。これを保身でやっている自分に嫌気がさしてきた。

相談すればするほど、自分が弱くなる。本当に価値のある部分の自分が損傷される。と確信に至ったわけだ。

だから大事な事ほど誰にも相談せず、自分で考え、自分で責任を取る事というスタンスを取り戻そうと思う。それだけが自分の納得感のある生き方を高め、人とは一味ちがう仕事につながるのではないか。

そもそも、他人は相談されたら、頼まれてもいないのに、好意で、その相談内容の「弱点」をみつけ、そこを指摘する傾向にある。しかし、実際に色々な分野で色々やってみると、分かるのだ。

物事の成功を決める大事な要素は、そのプレゼンテーションを魅力的にした部分では無い事が多いし、失敗の要素も、指摘を受けやすい危なっかしい部分や、論理的に辻褄が弱い部分では無かったりする。

「儲かりそう」な話は儲からないし、「世のため人のためになりそう」な話は世のため人の為にならない事が多いのだ。「いい人」は「悪い人」だし、「悪い人」は「いい人」だったりもする。

僕は、僕だけの宗教がある。「神」=「究極の善」、がどこの宗教でも前提だが、僕は、「神」は「悪」だと仮定するようになった。「悪」というよりはもっとタチが悪い。「個人的にウケる皮肉なブラックジョークを実現させる為だけに人類を生んだ存在」だと仮定している。真・女神転生、とかのように、神は救いを求める存在ではなく、僕にとってはボスキャラだ。

神の裏をかく事が、僕の自己実現につながると仮定し、それは人に相談するべき事ではない。20代のお前はダサかったよな、お前のほうがイケてたぞ、と10代の自分に弟子入りしようと思う。

相談したい事ほど相談しない。という1つだけで、今までの緩慢な人生に氷水をぶっかけて、ゲームに緊張感を持たすことができそうだ。