交差点

過去にブログで連載したほぼ唯一完結した短編小説です。
10年ほど前に書いたものですので、時代を感じるような内容もあります。


 コンクリートの校庭は、東京ではあまり珍しくなくなった。
「おい朝岡、何サボってんだよ」
 今日もこの校庭に怒鳴り声が響く。いつものことだ。
「先生。今日俺、あの日だから」
「は?」
「全く、保健体育の先生がとぼけちゃって。生理だよ、生理」
「そんなことぐらい知ってる。くだらん事言ってないで早く走れ」
 朝岡洋平は体育の授業となるといつもこんな調子だった。彼ももう3年の春を迎え、大学受験の話が教室内をちらつくようになってきた。今日もこの後、担任との進路面談が待ち構えていた。
「俺を高橋尚子みたいにしてくれるってんだったら走ってもいいぜ。小出監督」
 もう何も言わなかった。呆れてその場を去ってしまった。いつもの彼のやり口だ。
「相変わらず水沢を交わすのがうまいな」
 朝岡のもとに長身の男が背後から彼につぶやいた。
「宇佐美。久しぶりだな」
 宇佐美慶介の家は江戸時代から続く由緒正しい商人の家だ。バブルの頃に始めた貿易関係の会社が当たり、それを契機に様々な店を経営し、今では小さな財閥だ。
「2週間、どこに行ってたんだよ」
「ちょっと買い付けの仕事でタイに行ってた」
 彼は長男であり、両親も後を継いで欲しいらしく、彼に輸入雑貨のオンラインショップの仕事を任せていた。朝岡も最初はなんとなく彼を「お坊ちゃま」的なやつという目で見ていたが、話してみると逆に見習いたいぐらいの商売人としてのたくましさがあり、今では彼の親友の一人だ。
「さすが。お坊ちゃまは違うね」
「うちの会社の経費だから、遊んできたわけじゃないよ」
「……。お前の頭の中って、どうなってるか見てみたいよ。でも、もっと高校生活満喫したほうがいいんじゃねぇの? 俺みたいに先生おちょくったり」
 朝岡はそう言いながら、フェンスにもたれかかり遠くを眺めた。
「俺は高校よりバイトのほうが忙しいから。これ、お前にやるよ。タイのお土産」
 と、宇佐美は朝岡に象のキーホルダーを手渡した。
「サンキュー。これ、いくらで売るの?」
「450円」
 朝岡はキーホルダーを顔の前でぶら下げて、左右に揺れる象を見ながらつぶやいた。
「やっぱり慶介は俺と違って将来があるよな」
 すると宇佐美は少しうつむいて、
「父さんの会社、バブルはじけてから赤字続きでさ。最近やっと持ち直したんだけど、いろんなところに借金ができちゃって。それが原因で今父さん、母さんと別居中なんだ」
 と、打ち明けた。朝岡は彼に返す言葉が見つからなかった。
「忙しいからって言って家に遊びに来なかっただろ? 実は親の別居を知られたくなくて言ってただけだったんだ」
 宇佐美はうつむいたまま続けた。朝岡も彼がこんな現実を抱えていたことを知らずに、彼をからかったりしていたことが少なくはなかった。
「……。いいじゃん、そんなこと」
 宇佐美は朝岡が言ったことが意外だったらしく、目を丸くして彼を見た。「お前ならできるよ。借金がいくらあるか知らないけど、お前ならきっとやれるよ」
 朝岡は起き上がると宇佐美に言った。
「じゃ、俺は進路面談があるから。お土産サンキュー」
 彼は踵を返すと、校舎のほうへ歩いていった。残された宇佐美は
「強いな。洋平は」
 と、彼の後姿を見ながら呟いた。

 校舎の中は、去年改築工事が終わったこともあり、異様に新しく、新築建造物の匂いが鼻を突いていた。
「お前の第一志望は分かった。でも、そのためには今以上に勉強しないと合格は無理だぞ」
 朝岡の担任、神保だ。彼も体育の水沢同様、朝岡には手を焼いていた。「専門学校でもいいんだぞ」
 朝岡は何も言わなかった。
「第一に志望理由を考えたことがあるのか? 早稲田の政経なんて生半可な気持ちじゃ到底受からないぞ」
「先生も行きたかったんでしょ? ここ」
 朝岡は目を細めた。
「俺の話はいいんだよ。お前はどうなんだよ。志望動機があるのか?」
「先生、行きたかったんでしょ? ここ。それは自分のステータスのため?」
 神保は舌打ちをすると、話をするのをやめ、大きくため息をついた。
「朝岡、お前は将来何がしたいんだ」
「……」
「大学は自分の好きなことを勉強しに行くところだ。まず何をしたいのか教えてくれ」
 なんとなく朝岡に根負けしたようにも見えた。
「じゃ、逆に教えてください。なぜ大学へ行っても就職できない人がたくさんいるんですか?」
「それは…」
「自分の好きなことを勉強して、親にたくさん学費を出してもらって、最後の最後で就職できませんでしたってあまりにも悪すぎる冗談ですよ。自己満足の世界じゃないですか?」
「そんなに大学へ行くのが嫌なら、就職でもすればいいだろ!」
 神保は机を叩いた。ついに堪忍袋の緒が切れたらしい。朝岡は神保と目を合わせなかった。就職ができることならそうしたいと彼も思っていた。

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