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夏至を超えて

【生命力いろいろ】
 もう、夏至も過ぎた。太陽はマックス北から引き返し始めている。なのに北半球がやっと温められて熱を溜め込んで暑くなるのはむしろ秋分の方が近いぐらいの8月頃なわけだから、真夏の暑さっていうのは、まーあれだな、遅い。無粋。

 以前はむしむししてくるこの季節があまり好きではなかったけれど、いつからか、むんむんと繁る草木の生命力を感じられるこの夏至の前後の静かな賑やかさを、とても心地よく感じるようになってきた。

 私の心を覆っていた透明の鎧のような、重石のようなものが取れてきて、身動きしやすくなってきているからなのだろう。

 一昨年、去年と、様々に生命力を感じ取る夏至を過ごした。

 去年は、秋に虹の橋を渡って光の森に戻って行った私の猫の看病中だった。

命の底力は強くもあったとは言え、やはり脆さに満ちていたあの命のフチが欠けてゆかぬよう、それが早まらぬよう、慎重に慎重に、微細なエネルギーに接した夏至だった。

 そこからさらにまる一年前の2021年の夏至は、山に満ち満ちる豪快な草木の生命力にひとり浸っていた。まだ元気だったその猫に急な症状が出るすこし前だった。

そこで感じた太陽のエネルギーは、今の私につながる時間の中の大きな一点を、今も照らしている。


【眩しい6月、重苦しい10月(汗)】

 10年ほどヒト2人、猫2匹、「一緒にいたいから一緒にいるだけ」という完璧なシアワセの形の中で暮らしてきた家の中で、

もうそろそろ別れるのかもしれんなぁワシらヒト2人は、という想いがちらついていた頃だった。

 とは言っても、ちらついていたのは私の方だけで、むこうはまさか別れることになるとは思ってなかったらしい。最後に交わした会話によると。

あんな実りのない言動が続いていても不安ではなかったということなのか、と、10年一緒に暮らしても測り知れんものだ、虚脱感が募った。

 私も、最後の会話で確認のため伝えた、あんた全然私のことをわかってないよ、と。

別れない大前提なんて、私には無い。私は考え抜いた挙句に合わない人種だと結論づけたら、己の心を守るために親も切り捨てて一人でいることを選んできた人間なのだ。そのくらい知っていただろうに。

 まぁ、人間だもの。互いにわからんで当然だ。あんなに無敵のふたりだと確信できていた関係でも結局は互いに何もわからんものだということの確認に、10年使った。呑気な人生だ。

 実際に、もうヤメましょうあなたを信頼できないというただその一点において私はもうあなたとは暮らせない出てってください(私の部屋なのでね。)と、ブチっと緒を切ったのはその年の10月後半だった。

猫の容態がさらに悪化したのもその頃だった。夏に急激に仲良くなった深い縁の女性と、またあっという間に疎遠になったりもして、私にとってその10月は実に重苦しい季節となった。

 あの圧倒的な生命力に満ちた眩しい夏至は、そのたった4ヶ月前のことだったか。別世界のような、必然のつながりのような、パズルの1ピースのような体験。


【なぜか、ライアー。】

 その夏至を挟んだ数日間は、博多から長崎県島原市の工房を一人で訪ねてゆき、ライアー(竪琴)作りを習った。

 その数ヶ月前、うちの中の雲行きはすでに怪しかった頃、美しい音色のライアーの作り方を教えてもらいながら自分で作れるところがあることを偶然ネットで知って、気がついたら申し込むための連絡をとっていた。

 まるで決まっていたコトであるかのように、さくさくと年休を取る。習い事も休む。さっさと宿泊の場所を見つけ、工房まで通う道をリアルに思い描く。

 私がそういう動き方をするのは、本能で動いている時だ。優秀な秘書の自分が着々とテキパキ段取りをつけてゆくのを、ああ、今の自分にはこれが必要だから動いてくれてるのだなぁ、と社長の自分が後追いで納得してゆく感じ。

 6月半ば、さて行ってみれば、なんとも、いやしかし思い描いていたとおりの、山の中の工房。スマホの電波もあやういほどの。Googleマップの道も途中で途切れているほどの。

この森は、大きなため池の向こう岸。
草も木も花も、勝手に生きている。


みんな、勝手だった。


工房内。楽器を作っては弾くヒト。
木の代弁者みたいなヒト。鬼塚さん。オニさん。


【なんか、修行。】

 作り方を教えてくださる鬼塚さん、オニさんは、ヒトだけれど木の側に立つ、木のヒト。

木の性質、虚しく切っていかれる木の実情、木の扱い方、木のある地球の循環、水のこと・・・まるでもの言わぬ木たちの広報担当者みたいな人だった。

私が選んだのは、ケヤキ。
ケヤキと向き合った。
輪郭はまず、オニさんが機械で削り出してくれる。
あとは、自力で削る、削る、削る・・・


 慣れない道具ですぐ手も痛くなって、削っても削っても、まだまだゴールは遠い。楽器を作りに来たつもりが、実は自分を見つめに来たようなものだった。

 削りづらいなら、それは木目に沿っていないから。うまくいかない時は、何でもそう。それは自然な流れにどこか逆らってしまっているから。

 私の暮らしも、流れに沿ってここまで来たはずだったのに、気がつくと逆目になっていた。折り紙の、ダマシ舟のように。

 表からと、裏からも、削る。細かな凹凸、大きな凹みや出っ張りが、複雑な共鳴を生むんだって。時々、板を片手で下げて、もう片方の手でコンコン、とノックするように叩いてみる。

あるところから、コンコンが響き始める。ああ、良い音がしてきた、とオニさんが言う。

この段階のコンコンは
まだまだ、板に指が当たる音でしかない。

 ノミを打ちつけ続ける作業は精神修行そのもの。たまにノミがするりと木目に沿うと、なるほど楽に削れ、なるほどそのノミ痕は美しく、少々満足して眺めていたりもしたが、

そんな狭い視野で喜んだところで、そんなに分厚くてはハナシにならない、響かせるためにはもっと薄くしないとダメだと言われる。

 そのたび何度となく、狭く甘っちょろい満足を削り落とした。自己満足をヘタに残そうとすると、不格好さが増した。時間もかかった。

そろそろいいかなと感じられる「今」に辿り着くまでに、どれだけの地層が削ぎ落とされていったか。

あっという間に周りにたまっていく削りクズは、今の自分にたどり着くまでに削ぎ落とし、脱ぎ捨ててきた透明の重石だ。

毎日毎日、宿でコーヒーをポットに作ってリュックに入れて、出かけた。
作業を続ける日中のごはんは、時々かじるナッツだった。
毎日ただ削って削って、全然「食べたい」モードにならなかった。


【勝手に在るのが、生命。】
 淡々と、けれどあっという間に時間は過ぎてゆく。黙々と木と向き合って輪郭を削り出しながら時々目を上げると、そこらじゅうで勝手に生きている草や木や花があった。

 勝手に在るのが生命で、生きてるのはこっちの勝手でしょという態度が、生命力。

とにかく、草というのは、勝手に茂って、
勝手に花開くもの。
媚びずにヒトとすれ違う野良猫のように、
勝手に繁茂し、
勝手に自分の形状を展開する。

 たとえば紫陽花なんて、しっとりと梅雨空の下で淡く濡れながら咲いている花だと長いこと思い込んでいたが、

工房の外に勝手に立っている紫陽花は、もう、ただ淀みなくまっすぐに降り注ぐ光を、全く真反対のベクトルでこれまたまっすぐに押し上げながら、ただただ、まっすぐ光って咲いていた。恐れ入った。

 草木の生命が、ヒトと対等にある感覚だった。

いや、オニさんとは対等で、私のことは勝手にほっときながら時々引っ張ってくれていた、というような感覚に近いかな。

人格を持っている。


 心の中にじわりじわりと広がってきていた暮らしの翳りと、時々目をあげて工房から眺めた生い茂る草木の生命力、外に出て背伸びをしながら見上げた彩雲の眩しさは、ないまぜになって今もそのライアーを奏でるたびに流れ出す。
(↓ページ最後に、サンファルの作りたてのライアーの音アリ)

「ほら、彩雲が出てるよ」と何度も教えてもらって、見上げた。
長いこと空なんて見ていなかった。
俯いていたんだな。


【夏至の響き】
 この年の夏至の日は、その太陽がマックス北に到達する瞬間が日本でのお昼、12時半頃になるという、太陽の力を特に目いっぱい感じられる日だった。

オニさんがその時間帯に近くの岩戸神社にライアーの演奏を奉納に行くというので、遅々として進まない作業をほったらかして、私も車に乗せてもらって、ついて行った。

 オニさんは愛犬パピと一緒に、ライアーだけを持って山道を歩き始める。

ゆっくり登ってゆくと、深い樹木と一体化して切り立った巨大な岩の壁が、静かに在った。その奥にも洞窟というのかな、岩の空間が続いている。縄文の人たちの住処だったという。

 オニさんがその空間に響きを奉納している姿をすこし離れたところから見ている感覚は、ご神事そのものだった。

力強く安らかな本当の「時」が在る、良い時間だった。(その映像と音も、ページの最後にアリ!)

岩戸神社としてお祀りしてある小さいお社は、
大きく映っているこの建物を通して見える、もっと奥。

オニさんの奉納が始まっていたので、近くにいるのが憚られて
しばらく離れていたんだ。
「歩く木」みたいなオニさんと、手前にいるのがパピ。


【遺伝子書き換え:光から陰へ、陰から光へ】

 圧倒的な太陽の真下で、光を浴びて、浴びて、浴びて、私は自分の遺伝子を自ら書き換えようとでもしているかのような、無意識の、いわば根底からの努力を、していたのだと思う。

 ふたりで暮らして初めて心からの安心を感じられた頃の気持ちからやり直すことはできないものだろうかという思いは、いつからか通奏低音のように響いていたし、けれど時間は戻せないことも知っていた。

 寒くなってから、オニさんのパピは永眠したとフェイスブックで知った。

私の猫も具合が悪くなってその後一年間続くことになる闘病生活がもう始まっていたし、

うちの中には出ていってくださいと言ってもまだいつ出ていくとも何も言わずに電気もつけず過ごしている相手がいたし、

時間は、光の眩しさゆえにできてしまったかのような陰のほうへと流れていっていた。


 そんな止められないバイオリズムの波のような時間の、その中の一点にあったあの夏至の、あの太陽は、その光と熱でじりじりと

私のそれまでの、そしてそこからの深部を、書き換えてくれた。あの光は今につながっている。

 何か、ガンの温熱療法のような、じっとりとした苦痛を持ちながら私は耐えたと思うし、魂の道を踏み外さず進んでゆけた、その導きの生命力に満ちた光であった。

 私はここまで、しっかり選んできている。

夏至   = revised ver.=

また太陽が近づいて 夏が来て
遠くなるよな戻るよな 一回り
泣いた、笑ったと
蘇る夜はもう
強い日差しに色褪せるから
だいじょうぶ

死ぬほどまでは
もう誰も好きにならない
見渡せば ひとり 
何より大切なあなたでした
なんて長く愚かな季節

信号の青 非常口の光る緑
真夜中に育つ樹の息にそろえて
目を閉じる


また太陽が近づいて 夏が来て
夏は嫌いと言いながら シャツを買う
街へ出かけましょか
それとも 白い浜辺へ
あるいは 誰かに愛を 愛を 愛を 愛を

透き通る月 双子座で生まれ変わって
あの日 捧げた誓いを呼び起こす
離れたってわかるよ あなたと私は 同じ魂の形

許しきれなかった心は 思い知るための小ささ
真珠ふた粒

嘘偽りも 捨て台詞も 傷のあとも
眩しさの残像
波に沈んでゆけ
遠い源で溶けあうように
源で 溶けあうため

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 (動画1:オニさんが途中でこちらに近づいてきて音が大きくなるところは、このご神事を見ていた私や数人の人たちにも、ライアーを近づけて響きで清めてくれてるところです。オニさんは、神社までの途中の山道でも、時々気になる木を見つけては幹にライアーをあてて、直接響きを木たちに伝えてました。)


(動画2:出来立てのライアーを抱えて博多の自宅に戻った夜の、出来立ての音。このライアーは、ソルフェージュ音階です。)


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