【79】君と夏が、鉄塔の上
「椚彦、しっかり掴まっててよ。僕の命は君が握ってるんだから」
背中にそう声を掛けると、首元にギュッと反応が返って来た。
「行こう!」
僕はとにかく恐怖を振り払うために、大声で叫んだ。
「よし!」比奈山も声を絞る。
「……二人とも、自転車を押してくれ!」
僕は大声で叫んだ。「自分からじゃ漕ぎ出せないんだ!」
「格好悪いなあ」
ヤナハラミツルが笑った。
「伊達、これ持ってろ」
比奈山はそう言うと自分のお守りを外し、僕の首にぶら下げた。
「これ……?」
「交通安全のお守りだ」
比奈山はそう言って片方の眉を上げた。
「でもこれ、中身はただの板切れなんじゃなかったっけ」
どうにか頭を回転させて、そう皮肉を言うと、比奈山は目を丸くしたあと、小さく鼻で笑うのだった。
「よし……押すぞ!」
比奈山が僕の背中に手を当て、もう片方の手で左の羽を掴む。ヤナハラミツルは反対側の羽と、僕の腰に手を当てた。
「いっせーの!」
二人の声が重なり、自転車が進み始める。
僕は思い切りペダルを漕いだ。
初めはあまりにもゆっくり過ぎて、ストップをかけようかとも思ったけれど、屋上も残り半分、あと十五メートルぐらいに差し掛かると、次第にスピードが付き始める。この速度だと、もう引き返すことは出来ない。
僕は意を決し、さらにペダルを漕いだ。
速く、速く。
前輪が鉄板に乗り上げる。
続いて後輪。
タイヤが屋上から離れた、と感じた瞬間、僕の体はほぼ九十度真下に傾き、視界に地面が映り込んだ。
落ちる! 落ちてる!
物すごい速さで地表が接近してくる。このまま真っ逆さまに落っこちたら─考えたくないのに、僕は落下した自分の姿を想像してしまった。まず前輪がぺちゃんこに曲がり、次にハンドルがひしゃげて、それでも落下の勢いは止まらず……僕の身体は地面にぶつかり、自転車と一緒にバラバラになってしまうだろう。
嫌だ! 嫌だ!
僕はペダルを漕いだ。ペダルの回転に足が追いつかなくなるほど、必死に漕いだ。
気が遠くなるほど長い時間、荒川の土手を見つめていた─と思ったのだけれど、いつの間にか視界は開けていて、宵闇の荒川が前方に見えていた。
さらに力を込めてペダルを踏み、プロペラを回した。
強い風が顔や体に当たり、ごうごうという風の音が耳の中に矢継ぎ早に入り込んでくる。そんな中、ふと、後ろから声が聞こえた気がして、僕は耳を澄ませた。
「頑張れ!」
風の音があまりにも強くてしっかりとは聞き取れないけれど、確かに誰かがそう言っている。
「頑張れ! 頑張れ!」
ハンドルで方向を調整しながら、とにかくペダルを漕ぐ。飛んでいる、などと感慨に耽る暇もない。
一秒でも早く目的地に辿り着きたい、それ以外に考えられることはなかった。
お願いだから、土手を越えてくれ。
お願いだから、荒川の上まで飛んでくれ。
お願いだから――誰に祈っているのかも分からない。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 ここまで読んでいただけたことが、何よりの励みとなります! もし、ご支援をいただきましたらば、小説家・賽助の作家活動(イベント交通費・宿泊費・販促費など)にありがたく使用させていただきます。(担当編集・林拓馬)