文庫君鉄オビあり

【84】君と夏が、鉄塔の上



「やあ」

 出来るだけ明るく挨拶をしたのだけれど、帆月から返事が来ない。

「比奈山の家もすごかったけど、帆月もすごいところに住んでるんだね」

「別に、たいしたことないよ」

「番号を入れるインターホンって初めて触った」

「ここ賃貸だし。もう、引っ越すから」

「あ、そうなんだ。大変だね」

「そうでもないよ。慣れっこだから」

「……そう言えば、どこに引っ越すの? 遠いところ?」

 僕は恐る恐る尋ねる。まさかとは思うけれど、帆月のことだから国外なんて可能性もあるかも知れない。

「長野」

 その答えを聞いて、僕は安心して息を吐いた。

「なんだ。そんなに遠くはないね」

「うん、まあね」

 帆月は小さく頷き、そして、

「でも、近いって距離でもないでしょ」と小さく笑った。

「まあ……そうかな」

「多分、みんな忘れちゃうよね。私も私で、あの鉄塔とか公園とか、鉄塔の子供とか、どんどん忘れていっちゃう」

「そんなこと─」

 ─―ないよ、と言おうとする僕を、帆月は言葉で制した。

「最初のうちは覚えているだろうけど、環境が変わって、忙しくなったりすると、きっとどんどん思い出さなくなるよ。だって、繋がりが何にもなくなっちゃうんだから」

 それは帆月が、身をもって感じてきたことなのだ。時間を重ねるうちに、友達や、実の母親にまで忘れられてしまうのだと、彼女は恐れている。


 でも、僕は言いたかった。僕は帆月のことを忘れない、絶対に忘れるものか、と。

 言いたかったけれど、言えなかった。

 僕の言葉には、何の根拠もない。小学校のクラスメイトの名前すらろくに覚えていないのだから。

 だから、僕はただ俯いて、ぴかぴかに磨かれている床を見つめた。

 帆月はロビーに置かれている真っ赤なソファーに座る。

 僕もまた、その隣に腰を下ろした。ソファーは沈むように柔らかく、それが若干の居心地の悪さを感じさせる。

 それから、ロビーの中は、ソファーの皮が擦れる音や、唾を飲み込む音すら響くのではないかというくらい静かになった。

「転校はさ、別にいいんだ。新しい所に行くってすごい面白いし。でも─―」

 そこで帆月の言葉が止まった。静かなロビー内に沈黙が流れる。なかなか次の言葉が来ないので、僕は顔を上げた。

 帆月の肩が、小さく揺れていた。

 帆月の目、下瞼から、ゆるやかに一筋の線が流れた。ぴかぴかに磨かれているロビーに、一滴、ぽたりと跳ねる。

「私……忘れたくないし、忘れられたくない。伊達くんのことも、比奈山くんのことも」

 帆月はそのまま、唇を噛み締めるようにして、静かに肩を震わせていた。時折漏れる小さな声が、僕の耳や胸を揺らす。

「今までこんなに、考えたことなかった。人から忘れられるのなんて当たり前だって、分かってるのに……」

 帆月の手の甲に、ぽたり、と透明な雫が弾ける。

「私、伊達くんとかに忘れられちゃうの─―嫌だ」

 そう言って帆月は、崩れるように涙を流した。涙を流しながら、嫌だよ、と呟く。

「……でも、忘れちゃうんだよね? だって、離れて過ごすんだもん。あの列が進んでいくみたいに、少しずつ記憶は薄れていって、いつか綺麗に忘れちゃうんだ」

 帆月は顔を上げて、僕を見た。その顔はあの川の上で見た時よりもくしゃくしゃで、僕は、自分の心までもが潰れてしまいそうだった。
 


 ─―何か。


 僕は必死に頭を回転させた。


 ─―僕に出来ること。

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 ここまで読んでいただけたことが、何よりの励みとなります! もし、ご支援をいただきましたらば、小説家・賽助の作家活動(イベント交通費・宿泊費・販促費など)にありがたく使用させていただきます。(担当編集・林拓馬)