【65】君と夏が、鉄塔の上
「え? 時間がないって……まさか、不治の病とか─」
「そんなわけないでしょ」帆月はほんの一瞬だけ薄らと笑い、再び真剣な表情に戻る。
「私ね、夏休みが終わったら引っ越しするんだ」
「え?」
心臓が、どく、と動いた。
「言ってなかったっけ」
「……言ってなかった」
「じゃあ、今言った。今月でさようなら」
それがあまりにもそっけない言い方なので、僕は金魚みたいに口をパクパクさせるだけで、何も言えなくなってしまった。
「うち、離婚するんだ。二度目の離婚。お父さんが転勤するから、私はそれに付いて行く感じ」
離婚─よく聞く言葉なのだけれど、ちっとも現実感がないのは、僕が平穏な家庭で育っているからなのだろうか。
「それでね、本当のお母さんに会いに行ったの。小学校の中学年頃に別れちゃったから、もう大分会ってなかったんだけど……ここを離れると、会えなくなっちゃうと思ったから」
「うん」
「住所は分かってたから、連絡もせずに会いに行ったの。それが、駄目だったんだろうな」
「駄目だった……?」
帆月は何故か、まるで楽しいことがあったかのように微笑んでいる。
「お母さん、私の顔忘れてた」
「え?」
「家に行く途中の道で、お母さんを見掛けたから、〝お母さん〟って声掛けたの。一度じゃ振り向いてくれなくてね、だから三回、声掛けた。ようやく振り向いたお母さん、私を見て、誰? って顔してた。三秒くらいで思い出したみたいだけど」
「そう、なんだ」
「あり得ないと思わない? 今の母親ならまだしも、産みの親が娘の顔を忘れちゃうって!」
「う、うん」
僕は頷くことしか出来ない。
「大分会ってなかったから、しょうがないのかも知れないけどね。あっちはあっちで、子供もいたし、幸せそうだったから……」
帆月はもう、笑ってはいなかった。
「でも、その時思ったんだ。この人の中に私はもういないんだなって。私なしの世界で生きているんだって。今は三秒だけど、これが五秒になって、十秒になって、そのうち……思い出さなくなって……」
彼女は目を閉じた。それから、一つ小さく息を吐く。
「忘れられたら、死んじゃうのと一緒なんだって思ったら、なんか、焦っちゃって」
忘れられたら死ぬ─それは地理歴史部のテーマだ。街の話だ。まさかそれが、帆月の感情を揺さぶっていただなんて、そんなこと思いもしなかった。
「私、このままじゃ色んな人に忘れられて、色んな人の中で死んじゃうんだって思ったの。だから……」
帆月はそこで一度、言葉を切った。
「…………だから、どうしても夏休み中に答えが欲しいの。あれが何なのか、知りたいの」
帆月はまた、しばらく無言になった。僕もまた頭の中の整理が付いていかず、言葉が上手く紡げなかった。何も言えず、ただ蝉がか細く「ジジ」と鳴く音を聞くより他にない。
「夏休み、終わって欲しくないなぁ」
帆月はぽそりと呟き、唇を噛んだ。微かにその声が震えている。
僕も同じように夏休みが終わって欲しくないと思っていたけれど、多分内容は全然違う。
帆月にとって夏休みの終わりは、引っ越しだ。
母親にさえ忘れられるということが、どういうものなのか。誰かに忘れられてしまうということが、どれほど怖いものなのか、僕には具体的な実感が持てなかった。そんなこと、一度だって考えたことはなかった。
だから、僕は帆月の顔を見ることが出来なかった。顔を見ていいのか、見てはいけないのかが分からなかった。
慰めるべきなのか、笑って流すべきなのか……こんな時にどうすればいいのか、それさえも分からない。
比奈山ならどうするだろう。木島だったら何と言うだろう。
僕は─本当に、何の役にも立たない。
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