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「伝統」を見失った現代日本人に皇室の「伝統」が回復できるのか(令和3年4月12日、月曜日)


▽1 皇室までICU化した日本社会

もう30年以上も前になるが、雑誌の企画で「大学評判記」なるものを連載することになった。偏差値中心とは角度の違う大学紹介シリーズで、最初に取り上げられたのが早稲田の社学(社会科学部)、次が国際基督教大学、ICUだった。「ICUには純ジャパ、変ジャパ、ノンジャパの3種類の学生がいる」と聞いて、単純に面白いと思った。ワクワクしながら、取材に出かけたものだった。

「純ジャパ」は純粋の日本人、「変ジャパ」は帰国子女、「ノンジャパ」は外国人学生で、キャンパスは国際色が溢れ、輝いていた。だが、それから30有余年、日本社会がICU化していることに気づき、驚かされる。企業は国際化し、国際結婚は身近になった。街は変ジャパ、ノンジャパだらけだ。

国民だけではない。国際経験のある民間人が皇室に嫁ぎ、皇族が留学し、ICUに通う時代になった。しかし30年前の輝きがあるかどうかは別である。

純ジャパが人口構成的に少数派になったというだけではない。純ジャパからして、日本的、伝統的という概念が実感として縁遠くなっているように思う。保守派の人たちでさえ、いうところの「日本」「伝統」はせいぜい明治から戦前のことを指していて、それがたかだか150年の近代的日本だということに気づかないでいる。伝統回復が単なる戦前回帰になっている。近代=伝統なら矛盾も甚だしい。

しかも、その矛盾をいくら説明しても理解されない。保守派というのはおよそ頑迷で、頑迷だからこそ保守派であり、理性より感性が優ることが多いからである。理性的に考えよといくら求めても、思わぬ感情的対立に及ぶのが必定で、無駄骨に終わることになる。溜息しか出ない。

眼前で急展開する「女性宮家」問題は、まさに皇室の歴史と伝統が問われている。しかし、皇室も国民もすでに歴史と伝統の意義と価値を見失っているのだとしたら、議論の行方は目に見えている。男系継承を支持する保守派には、どんなに期待薄ではあるにしても、それだけに極力、理性の回復を求めざるを得ない。


▽2 日本最大の保守団体にして解決できない

ところで、先般、保守系の国民運動団体から今回の御代替わりを写真で振り返るグラビア集が送られてきた。書店で買えば、数千円はすると思われる豪華本である。編集の手間と苦労はしのばれるし、手に取る保守派を満足させ得る内容だとは十分に想像がつく。

しかしである。それなら、今回の御代替わりをこの団体はどう検証し、総括しているのだろう。たしか、改元については最後の最後まで「践祚即日改元」を主張し、安倍政権にきびしく要求していたはずだ。安倍総理は国会議員懇談会の特別顧問で、国会議員の何割かは懇談会のメンバーとされる。団体は「安倍政権の黒幕」とさえ目されていた。実現可能性を少なからぬ国民は期待したはずだ。

しかしそれでも「践祚当日改元」は実現されなかった。そればかりではない。歴史にない「退位の礼」なるものが創作され、「退位」と「即位」は無惨にも分離され、大嘗宮は角柱、板葺きに変えられた。前代未聞の事態。伝統重視を訴えたはずの団体の願いは完全に足蹴にされている。

ふつうなら怒りの声が全国的に昂然と湧き上がっていいはずだが、裏切りへの抗議はまったく聞こえてこない。それどころか、践祚1か月前、新元号発表の日に団体は政府批判どころか、新元号が国民に広く受け入れられるよう念願するとのメッセージを公表している。そして今度の豪華本である。団体は国民運動体というより政権の追認団体になっているかに見える。

昨秋には、同議員懇が菅総理に対して、男系継承の確保を申し入れたと伝えられているが、散々な御代替わりを本格的に検証することもないのなら、眉に唾するしかないだろう。日本最大の保守派の国民運動体を組織し、潤沢な資金を集めた手腕には心から敬意を表しなければならないが、もっとも肝心な、日本の文明の根幹に関わる皇室問題に大きな汚点を残した反省はどこまであるのだろうか。やってる感だけのパフォーマンスでは済まされないのだ。

この団体の組織力、資金力、政治力をもってしても、皇室問題を解決できないのだとしたら、いったい原因はどこにあるのか、よくよく理性的になって、考えなければならない。団体の無能、力不足と簡単に断定できないからである。日本社会に巣食う、もっと深い構造的な問題があると想像されるからである。つまり、日本の社会、日本人自身が変わったということである。

もしそうだとしたら、現下の問題である、歴史と伝統が大きく揺らいでいる皇位継承に関する議論はどうなるのかである。皇室も国民も歴史と伝統についての意識が変わってしまっているとしたら、議論の行方はどうなるのだろう。


▽3 よほどの劇薬が用いられないかぎり

日本人の伝統的感性というものは四季折々に美しさと厳しさを見せてくれる自然と深く関わっている。けれども現代では、とくに都会では、自然は失われ、コンクリートとアスファルトに一様に覆われている。伝統的自然観が失われているのは、その結果である。

かつては日本人の宗教心の根幹には生まれ育った土地への強い思いがあったが、人と土地との結びつきは失われている。人々は定住性を失い、遊牧民化している。「産土神」「氏神」はほとんど死語と化している。

生まれた土地で一生を過ごす人はいまどれほどいるだろう。インテリ、エリートほど異動の回数が多い。いやそれどころか、ふつうの庶民が常時、移動している。国民の大半は勤労者で、サラリーマン社会はグローバル化しているから、国内にとどまるとも限らない。

さらに明治以来の近代化と戦後の教育がある。明治の近代化はキリスト教世界の一元的文物を積極的に学び、導入することだった。その先頭に立ったのは皇室だった。あまりに急激な欧化主義に席巻される日本の教育を見かねた明治天皇の発案に始まった教育勅語の煥発も、非宗教性、非政治性、非哲学性が大方針とされたのに、下賜直後から一神教的崇拝の対象とされていった。

皇位継承の男系主義は皇室古来の「祭り主」天皇観と一体のものであり、日本社会が多元的ルーツを持ち、多様な文化を育んできたことと関わっている。多様性のある統一のために、天皇は皇祖神のみならず天神地祇を祀り、米と粟を捧げて、国と民のために公正かつ無私なる祈りを捧げてきたのだ。そして民には民の多様な皇室観があった。

しかし近代化は行政、貨幣、金融、教育、鉄道など日本社会をことごとく一元化したのである。それでも戦前まで天皇は「祭り主」であり続けたし、日本社会には伝統と近代とが共存していたが、戦後は「祭り主」天皇が否定され、天皇の祭祀は「皇室の私事」とされている。地域の信仰も忘れられている。

そして日本人は一元化された社会にどっぷりと浸かり、日本人自身の考え方が一元化している。一元論に染まった戦後のエリートたちが憲法を最高法規と信じて疑わず、皇室の歴史と伝統を破壊しようとしている。ICU化した国民の多くもまた同じである。先述した保守団体が主張した「践祚当日改元」も、皇室伝統の「踰年改元」とは異なるのに、彼らは気づかない。

などと言ってみても、理性より感性が優る保守派にはなかなか通じない。とすると、よほどの劇薬が用いられない限り、眼前の皇位継承問題を形勢逆転させることは不可能だということになる。

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